- 石和より帰陣 投稿者:こたつ城主 投稿日:04月19日 21時14分
- ↑してからも、実は別の話題に加わってたワケですが(笑)、
のりちゃんが行けなかったもんだから、こちらの情報も一つ。 石和川中島合戦戦国絵巻に行って参りました。 山梨県は甲府の隣、石和町という所で行われる合戦祭りです。 戦なんで、鎧着て戦うワケで、全然神社ネタには絡まない のですが(^_^;)、 一つだけ、もしかして関係あるかな、と思ったのは、 武田軍と上杉軍に分かれて戦うのですが、(ちなみに ご存知の方も多いとは思いますが、川中島合戦とは、 武田信玄と上杉謙信が戦った合戦名であります) この両陣営とも、総大将を中心にして、出陣の儀式 というのを行います。 武田本陣では、信玄を中心に、「三献の儀」。 これが毎度、私の参陣する上杉軍からは遠くて見えない のですが、今年は10倍ズームのデジカメを持参した ため、目では何やってるのか見えにくかったのですが、 何となく撮った写真に、偶然信玄に兜を被せる所が 見えました。 王冠の授与式みたいなモンですね。 あと三献というのだから、恐らく結婚式の時の固めの 盃みたいなモンではないか……と。 一方上杉軍では、武てい式というのを執り行います。 こちらは自分の居る陣地ですから、わりとよく見えます。 総大将(謙信)が清めた水を上杉の各隊の大将達の持つ 竹筒に配り、各々がありがたく受け取って飲む。 それだけです。 儀式には、鮑や勝ち栗など、要するに結婚式か結納の 時に見かけるような品々と、やはり一応祭壇みたいのが ありまして、そこに供物が捧げられていました。 これより死を賭して戦いに赴く武将達にとって、 総大将(信玄と謙信)とともに、こうした儀式に 出られる事は最高の栄誉であり、これをもって戦場への 手向けとした、という具合の説明がナレーションで されるんですね。 もう何度も出場してますので、何度も見てるワケですが(^_^;)、 最初にこれを見た時は、「おおっ、鎧を着たまま、 神様の儀式に参加してる、カッチョイイ!」なんて 思う反面、本当に戦国期の武将達にとって、鎧姿のまま 参拝なんて事は既に当たり前で、そうした血なまぐささ をとやかく言う雰囲気ってのは、皆無となってたんだ なぁ、とか思いました。
- レポートありがとうございます 投稿者:のりちゃん 投稿日:04月20日 09時15分
- 戦の前に儀式を行うというのは、知りませんでした。
でも、心情的によくわかりますね。 戦国の戦では、大勝した側の軍でも、何百人という死者が 出たのでしょうし。 三献の儀は、総大将と、各々大将達が交わすのでしょうか? 自分の結婚式で、三献の儀をやった時は、 「足りない〜〜!!」と思ったものですが、多分、戦前の 三献の儀は、もっと大きな盃でするんでしょうね。 武てい式も、総大将から「力水」を頂くということでしょ うか?儀式の意味ははっきりわからないけれど、その水を 頂く大将達がこの水を「あり難い」と思って飲むだろうこ とは想像できて、面白いですね。 さて、神前に鎧姿のまま・・・のことなんですが。 そもそも今、限られた神社で、言われる「タブー」っての を言い出したのは、最近じゃないか、と思います。 神式の葬式ってのもあるのに、死者の穢れがタブーのわけ ないですしね。 神様同士も随分殺し合いをしてるわけですし、自分達がや ってきたことを人間がするのを見て眉をひそめるほど、神 様ってのは度量が狭くないでしょう(^。^) タブーうんぬんって言うのは、神様の度量じゃなくて、タ ブーを気にする、人間側の度量の狭さなんだと思います。 (といって、神社の鳥居壊したり、本殿汚したり、そうい うのは、絶対ダメですけどね。)
- あれかな……? 投稿者:河内判官大夫 投稿日:04月21日 00時58分
- いはゆる、
「御旗、楯無、ご照覧あれ!」 と云ふ武田家名物の儀式とは違うものなのでしょうか? この三献が後代、水盃とかになったのやもしれませんな。
- 御無沙汰しております 投稿者:石野真琴 投稿日:04月21日 14時01分
- 管理人、のりちゃん様、大変御無沙汰しておりました。
三月から異様に忙しい日々を過ごしております石野真琴です。最近では話題が難しくて、なかなか参加出来ません・・ さてここで、こたつ城主様が、「三献の儀」と「武てい式」を紹介されておられますね。この「三献の儀」は戦国時代では比較的良く行われた出陣の儀式の一つだと言われています。三献は昆布、勝栗、打鮑の三種を肴に、三度に分けて土器で酒を飲む儀式です。これは出陣に際して勝事を祈る儀式です。最後に土器(かわらけ)の杯を石に叩き付けて割り、出陣することになります。 この後にそれまで横にしていた旗を立てる、旗上げの儀式もあったと言います。 三献の儀式は、前田軍でも行っていたというので、武田軍だけの儀式ではない事は間違いないです。 さて、知っている範囲で言えば、土器を割るのはその割れ方で吉凶を占ったと言いますから、占い形が伝承された形態では無いかと思います。 戦国時代はまだまだ神と人が共存していた時代であると言えます。ごくわずかな偶然が生死を分かつ場合があります。わずか一歩前に進んでいた為に矢にあったとか。矢を避けたとか、当たり所が良かったとか。悪かったとか。このような偶然を、神意と解釈し、神に幸運を祈ったのではないかと思うのです。この話はまたどこかで・・ 武田家の当主が先祖伝来の甲冑である楯無鎧(たてなしよろい、伝承は・・忘れた)と御旗(みはた、伝承は家祖新羅三郎の兄源頼義が、後三年の役か、前九年の役の際、後冷泉天皇より賜ったとされる、源氏の日の丸)の前で、自分の決意を先祖代々の魂に捧げる時に、「御旗、楯無、ご照覧あれ!」と叫び、これにより重臣や家臣の進言を退け、自分の意見に従う事を強要したと言います。この「御旗、楯無、ご照覧あれ!」は、武田家当主が先祖への誓いを立てる言葉であると言えます。大河ドラマではこれが一種の儀式のように撮影されていましたが・・どうなんでしょうねぇ。
- 横から失礼します 投稿者:ぷち 投稿日:04月22日 03時33分
- 皆さん御存知かもしれませんが…
私が、何某神社の宮司さんから聞きかじった、結婚式で 行われる"三献の儀"(神酒ハイタイ)についての豆知識です。 まず、現在お式で行われる主な方式は、 一番上の杯を、新郎→新婦→新郎の順 二番目の杯を、新婦→新郎→新婦の順 三番目の杯を、新郎→新婦→新郎の順 …と言う風に、3つの杯を3回ずつ使い、3度に分けて 飲むのです。 多くの一般の人が神前式を行う様になったのは、 明治天皇のご成婚で影響を受けてからで、それまでは、 人前式が主流だったそうです。 この形式は江戸時代位からのもので、 当時は、新郎と新婦の間に、今でいう仲人さん(一人だけ) の席があり、三人並んで出席の人の方へ向いて座り、 なんと"三献の儀"をその三人で行ったらしいです。 (どの様な順番かまでは、忘れてしまいました) …"3"は安定しているので結婚や、結束を固めたりする のに向いてそうな感じがしますね。(高鴨神社のレポート内の"9回"というのも3に関係がありそうですねぇ)
- 判官殿 投稿者:のりちゃん 投稿日:04月22日 09時49分
- 水盃ってなんですか?
もしかして、盃で水を飲むの?(←そのまんまやんかいっ!) それも、武士のセレモニーですか? 私、本当に、皆さんに教わって始めて、昔の戦争は、いろ んな儀式やまじないごとに彩られてたんだって知りました。 本当に、それは、ちょっとした間違いで大将も落ちてしま うからなのでしょうね。 今の戦争は、大将は、ぬくぬくとしてる戦争だもんな。 やっぱり違うと思うですだよ。
- 石野真琴様 投稿者:のりちゃん 投稿日:04月22日 09時57分
- いつも、ありがとうございます。
石野さんのレポートは、誠実な人柄がにじみでてて、我が 身を振り返って「お手本にせねば」と思います。 さて、昆布・勝栗・打鮑を肴にした、ということは、お酒 の方も結婚式で飲まれるような形式だけのものでなく、結 構な量を飲んだということでしょうね。 また、土器を割って占ったということなんですが・・・。 もし、これが「凶」と出ても、やはり戦場には赴くのです ね。覚悟を決めて・・・? 負けだと思っていても、赴いたのでしょうね。
- ぷち様 投稿者:のりちゃん 投稿日:04月22日 10時05分
- 三献の儀は、人前結婚でも行われていたんですね。
神前結婚の場合は、仲人の代わりに仲介者としての神様が いらっしゃるので、新郎と新婦の間だけで盃を交わすけれ ど、人前結婚の場合は、仲介者を合わせて儀式をするので すね。 3という数字は陽数だから、というのもあるでしょうね。 3×3=9は、最も大事な陽数で、 易で、陽の爻を「九」と呼ぶのも、そういう意味なんでし ょうね。(ちなみに陰の爻は、「六」です) 私は神前結婚だったんですけど。 予行演習がなかったんですよ。 ぶっつけ本番で説明もロクになかったので、廻ってきた盃 をくくくい〜〜〜〜〜っと飲み干してしまいまして・・・。 旦那は、形だけ口をつけるということに(^^ゞ 私が飲み干してしまった時の巫女さんの焦った顔。 忘れられません(^^ゞ
- 儀式の裏側(笑) 投稿者:こたつ城主 投稿日:04月23日 17時17分
- 水盃は、なぜ水になっちゃったのか私も知りたいんですが、
「死を直前にした盃」という具合に、よく時代小説には 出て来ますね(^_^;)。 江戸期の時代物で見るシーンとしては、何か失敗したり、 主君(暴君とか)に死を賭して諌言するなどの時、 よく家族で水盃をかわして家を出る、なんちゅう具合。 つまり「もう生きては帰って来ない最後の盃」みたいな 具合に使われてるのを見掛けます。お酒だと酔っ払って 大事を成し遂げられないからでしょうかね? 盃を叩き割るのも、「二度と帰って来ない(割ったら 二度と使えない)」という意志の現れ、という具合に、 何しろ「決意」を示すものとして表現される事が多い ように思えます。 江戸期以降になると、こういう忠誠心みたいのは当たり前 という感じになるかもしれませんが、戦国期なんて、 いっぺん戦場に出てしまえば、そのまんま敵方に寝返る なんちゅう事もよくありましたから(^_^;)、人質に 残して行く(つもりはなくても結果的にそうなる) 家族とは、勝っても負けてもこの世の別れになる可能性 は強かったのですね(^_^;)。 このように考えると、戦に勝つためとだけ考えると 「どうしてそんな不吉な事を?」と思える作法も ちょいとあざとい裏が生臭く見え隠れするのですね(笑)。 大将の戦い方というと、信玄と謙信は非常に対照的 でして、これがよく言われる信玄と謙信の一騎討ち (むろん後世のフィクションであります(^_^;))に その性格の違いがよく現れています。 信玄は床机に座ったまま軍配で迎え撃つ。 謙信は馬上自ら切り込み、敵の武将に刀を奮う。 こんな事が本当にあったのではなく(^_^;)、信玄は 軍議を重んじますが、あくまでも総大将というものは、 本陣から兵士達に命令を下し、彼らの成果を評価して 最終的な論功行賞の責任者として「動かざる事山の如し」存在としてうってつけの武将であったと。 一方の謙信は、戦は臨機応変さを要するので、先に 細かく作戦するより(つまり軍議を重ねるより) 皆が付き従う気になった総大将が自ら馬上で先頭を切り、 軍を鼓舞し、兵士達はただ、それについていけばいい、 という一種のカリスマ性を持った武将だったと。 さて三献の儀ですが、私の結婚式も神前だったのですが、 これは元々姉が教会だったので、二度目の私は親族に サービスせにゃならんと(親族の中で女性が少ない ので、数少ない花嫁姿には親族のアホな期待が集まるん ですね:笑)、それだけの理由で神前になったわけで すが、緊張してたのかリラックスしてたのか、私は 三度とも一気飲みをしてしまい、親族一同「この後、 まさか、ガチャンと割って、出陣じゃあ! と叫ぶの では……」と心底恐怖に怯えた模様であります。
- おお、こたつ様 投稿者:石野真琴 投稿日:04月23日 23時58分
- 三献の儀式で、土器を割って吉兆を占うと言う言葉で、誤解を生んでしまいましたか?
戦国時代の三献の儀では土器を割りますが、もはや吉兆を占うのは、形式だけとなっていたものと思われます。 実際の手順としては、出陣する前に、軍議、陣触れ、出陣の儀式と旗揚げとなります。この群議の前に、軍師が吉凶を占って、出陣に適した吉日を選んでいたと言います。従って、土器の割れ方云々がどうあろうと、吉日なのですから出陣したわけです。 さて、軍議の前に籤を引いた例としては、明智十兵衛じゃなくて、日向守光秀は、本能寺で織田弾正忠じゃなくて、右大臣信長を殺す軍を起こす前に、籤を引いたが大凶であったとか・・。 軍議に先立って、自分の決意を神社に奉納する習慣もありました。この奉納した書状が今でも残っていて、当時の習慣などを伝えてくれています。 もっとも戦は相手がある事ですから、こちらの都合に従って攻めてきてはくれません。それでも吉日を選んで出陣する所に、この時代はまだのんびりしていた事が解ると思います。また、吉日が決まっていても、相手の動き次第では出陣を延期した事例もあります。はれ物が出来たとか、目が腫れたとか、明らかに時間稼ぎの理由があったり、母親が急死して延期したした場合もあったようです。 まえに紹介した真田の山家神社(やまがじんじゃ)は、延喜式内社と紹介しました。この神社の本尊は信仰上は白山とよばれる、信越国境にそびえ立つ四阿山(あずまやさん)であるとされます。この神社は素朴な山岳宗教の神社なのです。 ここに信濃に残った山人つまり縄文人と、真田家との関係が想像できるわけです。 また真田は、忍者使いとして世に知られますが、その理由の一端にこの神社を奉っていた事が上げられます。山伏、山岳密教を信仰する人々は、諸国を巡って情報を集めていたとも言われるのです。
- 水さかずき 投稿者:河内判官大夫 投稿日:04月24日 01時22分
- ちと調べてみませう……。
1.「水盃」で調べる → >風水・水盃【大】 価格 1,500円 (消費税別・送料別) >方法が新しくなりました! >友達にメールですすめる.お気に入りに追加. ... 何だこりゃ?友達にすすめてどうすんじゃぁ(爆)! >●開運水盃 水盃で開運?ううむ……。 2.「水杯」で調べる → >船水杯 >横水杯 >菊水杯 ……?(゚_。)?。競艇かぁ! 3.「水さかずき」で調べる ふぅ。やっとマトモなのがでてきました。 >酒の代わりに水を用いて飲む別れの杯。 >再会を予期できない時などにする。 と云ふことですが。どうも不吉な意味にとられて ゐます。 しかし、もともとは「安全を誓う」とか、つまりは 「生きて帰る」と云ふことのための儀式であった やうです。 そして、戦国時分では盃を地面に叩きつけて砕いて しまふわけですが、これは「(盃が)地に帰る」と 云ふことで、つまりは「帰る」の意味がこめられて ゐるのださうですわ。 しかし、なんで「水」なんかは判りませんでしたぁ。 酒だと、「もぅ一杯、もぅ一杯」とか云ふやつが 出てきて収拾がつかんことになるからでせうか(笑)。
- こたつ様 投稿者:のりちゃん 投稿日:04月24日 08時55分
- ちょっと話がそれちゃうかも知れないんですが、うちは、
ばぁちゃんがいたので、すごく迷信にうるさかったんです ね。鍋から湯を湯のみに注ぐ時、逆手で注ぐとすっごい叱 られる・・・とか。 その中に、盃に水を入れて飲むとすごい怒られたことがあ ったのを思い出しました。 子供のころは、理由なんてわかりませんから不思議でした が、「死を覚悟した時に飲む飲み方」だったんですね。 信玄と謙信については、「塩を贈る」の逸話が有名ですが、 謙信については、とかく、美談が多いような感じを、あま り詳しくない私は受けてます。 ・・・時代劇なんかでも謙信を悪に描いたものってありま すかね? ただ、総大将が先陣切って戦に望むってのは、大将にカリ スマ性があればあるほど、万が一(ってぇか、先陣切って たら、可能性十分あるけど)自分が倒れた場合のことを考 えると、これは、あまり良い大将と言えない気もしますが。 上司にするなら、こういうタイプがいいですけどね(^^ゞ んでもって、こたつさんも一気飲みでしたか(笑) うちの親族は、さすがに、「出陣じゃぁ」の心配はしてい ませんでしたが、 手の甲で口をぬぐい、「ぷは〜〜っ!」って言うんじゃな いか、と心配したようではありました(爆)
- 石野真琴様 投稿者:のりちゃん 投稿日:04月24日 09時13分
- ミーハーで非常に申し訳ないのですが、「ヒカルの碁」を
こないだ読みましたら、信長が本能寺で打たれる前、二人 の碁の名手に御前で打たせていたところ、珍しい、三コウ ができた、といわれているとか(石野さんは、将棋うちさ んですよね。囲碁の話ですいません)。 これなんかは、後世の付会かもしれませんが、武将の最期 の直前に、「大凶」の予兆があった、なんていう逸話は、 探せばいっぱいあるような気がします。 はれ物ができた・・・とかいうのもそうですが、こうやっ て皆さんにお話を伺っていると、戦の勝ち負けを決めるの は、本当に「天」だという感じが、今の私達より、ずっと 自然だったんでしょうね。 またまた話はそれますが、その点、秀吉の一夜城なんかは、 自らの工夫で、天を動かそうというような積極性がみられ て、がちがちの武士にはない柔軟さがあったのかな、と、 思いました。(一夜城って、単なる伝説なのかも?) 真田の山家神社、興味深いです。 山岳信仰って、本当に古い古い信仰の形だと思います。 それが、修験者を生んだのか、また全然ルートが違うのか はわかりませんが。 またまた話がそれます。 この間、柳生十兵衛が修行したという岩場に行ったのです が、ここを歩くだけでも大変・・・と思いました。 つまり。 現代人から見たら、ほとんどの戦国武将は、「忍者みたい に身軽」だったんじゃないかな?と。 修験者や山伏を使って情報操作したり、情報を集めたりし た武将って結構いたのでしょうか? 楠正成もそうだったということですが。 真田幸村・楠正成・・・。 なんか、共通点が(^^ゞ
- 判官殿 投稿者:のりちゃん 投稿日:04月24日 09時18分
- わはははっははははは!!
朝から笑いをありがとう(^O^) しかし、その「風水水盃」ってのは、ちょっと興味ひかれ ますね。 やっぱ、 「水杯を西南の方角においておくと、金銭運アップ!」 とかで、札束風呂に入ってる写真とかが載ってたりしまし た?? (私、あの手の広告読むの、好きなんですよ。悪趣味な) しかし、もともとは、「無事帰る」という意味の儀式が、 「別れを覚悟する」という風に変わって行くというのは、 ・・・面白いですね。 いや、ままあることでしょうけどね。 水ってのに、どんな意味があるか・・・。 いや、よくわからないけど、「死出の水をとる」って言う でしょう? あれとなんか関係あるのかも知れませんですね。
- いやいや(^^ゞ 投稿者:こたつ城主 投稿日:04月24日 20時28分
- >石野真琴さま
誤解はしてないです(^^ゞ。元は本当に占いだったと 私も思います。 かわらけ投げってのが、琵琶湖の竹生島(都久夫須麻) 神社ってトコにありますが、あれは恐らく盃を割って 吉凶を占う事が原形であったと思います。 ちょっとこの件で笑い話があって、ウチのこたつ亭主、 ここに行った時、これを「かわら投げ」と読み間違えて、 「スゴイな! 瓦を投げさせるんだ!」と勘違い しちゃったんですけどね(笑)。 のりちゃんは行った事があるから知ってるかもしれないけど、 お金を払って、境内から投げさせてくれます。 ちょっとしたストレス解消ですね(笑)。でも 投げた結果が下に飛んでっちゃって残骸が他のと 混ざるんで(汗)、形を見分ける事は出来ませんが。 >判官さま 水盃も盃割りも、吉凶はたしてどっちの概念が先か、 私も判らないです(^_^;)。 しかし割れた器が地に帰るという事に、「死(人も 死ぬと地に帰る)」を重ね合わせれば不吉には違いない とは思うんですよね。モチロンこれは、死を絶対に いけないもの、とする現代人の感覚で捉えてはいけない でしょうけどね。 これは、それこそ石野さまの管轄ではありますが、 真田の六文銭にしても「三途の川の渡り賃」と言われる 所以は、そうした不吉さを「武勇」に摩り替えた理論 で、やっぱり武士にとって「死を賭して戦う」事で 日頃の不条理(背反したりする行為(^_^;))を清算して いたのだろう、と私は想像します。 あと、泥棒だったか職人だったか、仕事前に酒を飲む 流派と、終わるまでは一口も飲まない流派とあった、 とか前に聞いた事があるんですが、これは恐らく、 元は武道ではないでしょうかね(^_^;)。酔拳みたいのも あれば、私の通ってた道場では禁酒でありました。 穀物や刺激物の導入に関してもいろいろありますしね。 >のりちゃん 秀吉で有名なのは、中国大返しの時(信長が本能寺 に倒れ、これの仇討ちに引き返してくる途上)、 姫路城で占い師だったかが戻り凶と占う話ですかね。 秀吉はこれを「マズイ」と思ったのか(笑)、「この 城には二度と戻らないと言う事は、つまり勝つという 事(買ったらもっとデカイ城が手に入るって意味か) だ」と豪語して出て行き、光秀を倒すんですね(^_^;)。 こゆ事って多かったと思います。死をどう捉えるかは 現在と違うとは思いますが、やっぱ死んだり負けたり するのは嫌だったでしょうから(死ぬのは良くても 無駄死には嫌だよね)、やっぱ将にとって、人の心を どう持って行くかは重要だったんでしょうね。 座っていれば神に見える人も、馬上にあれば神に見える 人もいて、何しろ人が神にならなきゃならなかった 時代。乱世とは、そういうものかもしれませんね。
- こたつ様 投稿者:のりちゃん 投稿日:04月25日 08時49分
- はっきり覚えてないんだけど、ある作家(名前忘れた)が、
雑誌の記者に「悲観主義者と楽観主義者の違い」を尋ねら れて「ウィスキーがボトルに半分残っている時に、『あぁ、 もう半分しか残ってない』と考えるのが悲観主義者で、 『まだ半分も残ってる』と考えるのが楽観主義者である。」 と答えた、なんていう有名な逸話があります。 たしか、バーナード・ショウと読んだと思うんだけど、最 近記憶が・・・(こればっかり) あと、こんな格言もあります。 「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意思のもので ある」 誰の言葉かは忘れました。 秀吉は、意思的な楽観主義者だったのかな?と思いますね。 意思的に、「神」になろうとした、とも言えるかも?? 現代社会でもそうですが、こういうリーダーにひっぱられ る団体は、伸びると思います。 竹生島神社の「かわらけ」投げ、私もやりました。 で、私も、「瓦投げ」と勘違いしてたので、ちっちゃいお 皿を2枚渡されて、脱力しました(^^ゞ 私が行った日は雨だったので、余計に視界が悪く、どこに 飛んで行ったのかさっぱりわかりませんでした。 私と一緒に島に上がった団体は、ほとんどがお寺目当てだ ったらしく、神社は私一人しかいなくて、宮司と結構お話 をゆっくりできて、よかったんですけどね。 でも、経営のことを考えると、少し心配になったのでした。
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