- 動物天国 3 投稿者:のりちゃん 投稿日:02月27日 23時38分
- そろそろ意見もでつくしてきましたが、スレがなが〜くなったので、一応、新スレをたてます。
このスレの成長がとまってしまっても、どうか、みなさん、自然や動物に対してどうすれば一番よいのか、を、考えることをやめないでくださいね。 考えるだけではなんにもならない・・・ということは、けしてないと思います。 意識することは、とても大きなことだと思うからです。
- QUBO様 投稿者:のりちゃん 投稿日:02月27日 23時39分
- ダイビングされるんですね。
私は、社内旅行でハワイへ行った時に体験ダイビングをしたくらいですが、色とりどりの魚の間を泳ぐ楽しさと、耳抜きができない苦しさは忘れられません。 ついでに言えば、「5000円でビデオ撮影します」と言われたのに、日本人観光客の中で、私と先輩だけが、「いらぬ」と答えたら、日本語のしゃべれないインストラクターさん(でもとっても親切で面白い人だったけど)のグループに入れられたことも、忘れられません(^^ゞ 意思の疎通図るのが大変でした〜(~_~)これで、海もぐって大丈夫かよ?と(んでやっぱり耳抜きができなかったのである)。 海の健康を守ることの大切さ。 覚えておきたいですね。
- まんぼ様 投稿者:のりちゃん 投稿日:02月27日 23時40分
- ありがとうございます。
自然との共生について。 そうですね。人間が生きていくために、自然は絶対に必要であるのだとしたら、最低限の自然は人間が守るでしょうね。 その心配は、しなくていいぞ、と。 としたら、あとは、その自然保護が人間本意のものではなく、自然と人間の両方を視野に入れたものになるように、もうこれはやっぱり一人一人が注意深くあろう、としか、私には言えない(^^ゞ >取捨選択についての“対立” これが、なるべく「中庸」に近い形で決着がつくように。 自然がなくなっちゃう心配はしなくてよいにしても、それで満足しちゃってたら、人間の叡智(なんてものが、もともとあるのか?という話はおいといて)泣いちゃいますもんね。
- 具顕殿 投稿者:のりちゃん 投稿日:02月27日 23時40分
- 先住者は、彼らなんですよね。
人間は後からやってきたにすぎない。 まだ猿だから、人間と戦えるけど、戦うこともできずに、数を減らす動物の方が多いでしょうね。 「猿との戦い」は、「氷山の一角」なんでしょうね。
- こたつ様 投稿者:のりちゃん 投稿日:02月27日 23時43分
- >動物がこんな事をしてる、と驚ける人でありたいですね。
本当に、本当に、私も、そう思います。 この言葉に、思いっきり、うなづいてしまいました。 話は違ってしまうんですが、動物の保護についての問題に、ヒステリックな反応をする動物愛護団体さんへの反発ってのがあるように思うんですよ。 動物愛護団体さんへの反発がそのまま動物に対する反発なって表れてしまうパターンが、実は結構多いんじゃないか、という気がします。 「動物の敵は動物愛護団体」じゃぁ悲しすぎますよね。 だから、私たちは、やはり「中庸」を心がけた方がよいと思います。 例えば、こんな反応 「ペットショップが無責任に犬や猫を売るから、捨て犬や捨て猫が増えるんだ、ちゃんと可愛がる人にしか、動物を売らないようにしろ」 こういう極端なことを言ってしまうと、改善されるものも改善されないんじゃないか、と。 この手の改革は緩やかに進行するものなんじゃないか、と思います。 だから、こたつさんのおっしゃるように、 自分達が知らない裏で、何が起きているかに無関心にならず、 「自然を見つめる目」をいつまでも持ち続けることは、絶対有効だと、私は思いますです。 って、なんか、これしか言ってないようで、申し訳ないんですけども(^^ゞ
- もののけ姫じゃないですけど 投稿者:北畠具顕 投稿日:02月28日 16時29分
- 昔は動物にしろ植物にしろもっと敬愛されてたんですよ。
乙言主はいいました「我が一族は年々小さくバカになっていく。やがて肉として狩られるだろう」人間が畏敬の念を忘れた結果動物達は崇高性を失い、理解しあえない状況になってしまったのです。悲しいと思います。 動物愛護団体、自然愛護団体については常に「原理主義に走りなさんなよ」と思っています。彼らも絶対に肉食べてますからね。 彼らの反応を見るともはや自虐的にしか見えません。
- 投稿者:こたつ城主 投稿日:02月28日 19時10分
- 動物愛護に限らず、一時期激論を戦わせた傷がシコリ
になってしまい、その後は語る事すら億劫になる議論 は世の中に沢山あるでしょう。 そして激論を嫌がって、その話に触れたがらない人が 居て、それが風潮とまでなってしまっても、また そういう感じ方もこの世に必要だからあるのであって、 それも否定してはいけないと思います。 ただし歴史が繰り返すのは、そうした冷却期間の果てに 生まれて来た世代が、継続されてない情報そのものから 隔絶されきってしまい、何も無かったという土壌を 持ってしまう事。これはつまらない事ですよね。 昔は野鳥は人里離れた山奥にしか居なかったけど、 それを都会でも生き延びられた野鳥の子孫達は、たぶん 判ってないんじゃないかと思います。 人間は昔の野鳥がどう暮らしてたのかを知る事または 想像する事が出来ます。それは書物やビデオによって ですが、これが人間という動物の知恵の持ち方と言える と思います。 昔は山奥にしか居なかったのに、と嘆くのもいいし、 意外な生命力に喜んでみるのも悪くないと思います。 いろんな感じ方があって、それを語り合ってみる。 それが人間という動物なんだと思います。
- 具顕殿 投稿者:のりちゃん 投稿日:02月28日 19時35分
- 今まで「感謝」の話題が多かったですが、「敬愛」という感覚も、そういえば、薄くなってきたかもしれません。
昔、ヤマトタケルは、「こんな水門すぐ渡れる」と言っては、海神を怒らせ、「単なる神使いだから後で退治すりゃいいだろ」と高をくくって、病気になりましたね。 そういう意味では、少なくとも、ヤマトタケルの時代までは、「自然をバカにしたら、痛い目を見る」という教えは生きていたのかもしれません。 でもね、うちのばあさまなんかを見てると、まだ、自然を畏れる気持ちで一杯です。 お釜にこびりついてるおコメ一粒を残したら、大目玉を食らいます。 少なくとも、敬愛の気持ちの「根っこ」はなくなっちゃあいないと、思います。ってか、思いたいのかな?
- こたつ様 投稿者:のりちゃん 投稿日:02月28日 19時53分
- ありがとうございます。
考えてみたら、改革を起こそうと思えば、多少強引で極端だと思える意見も必要だ、ということもありますね。 反発や反論がでてくるのは当然としても、それは、「違う新しい意見」が湧き出てきたということ。 全く話し合いがされないよりも、ずっといいことだと思えます。 ただ、動物愛護に関してだけいえば、その矛先が動物に向かってしまう風潮を、感じることがあるものですから。 強い主張というのは、時として不満を生み、不満は、強いから弱いものへ、そしてさらに弱いものへ、と、順繰りにどんどん膨らみながら、投げつけられていくものであることが多いのじゃないか、と。 だから、この問題に限っていえば、厳しい論争をするにしても、「自分のため」「自分の主張を通すため」にするのではなく、「本来、何を求めて議論をしているのか」を、何度も見直す方がよいと、やはり思います。 人それぞれの多様な感じ方を、それぞれに、語り合い、お互いに、人の感じ方に驚いたり、賛同したり、反論したりできる。 人間ってのも捨てたもんじゃないなぁ。
- 仕事で熱川に出かけた 投稿者:ひくもん 投稿日:03月01日 02時18分
- ものの、相手がいきなり来れなくなって、伊豆に放置されることになってしまいますた。
ので、「バナナワニ園」と「伊豆アンディランド(亀族館」と「伊豆バイオパーク」を回ってきた次第。 川津桜という寒桜の交雑種(?)は咲き乱れてるわ、梅園は満開バリバリだわ、 胸焼けするほど、花と動物に浸ってまいりました。 ミーアキャットが死ぬほど可愛かった……あんまり懐きそうにない顔だけど。 しかし、改めて思うたですよ、やっぱり、『様々なレベルで共生』してゆかねばならんです。 重要なのは多分、この『様々なレベル』というとこです。 動物愛護にしても、 『動物には自然が一番!』 ということは原則は原則として持ちつつ、しかし、 『都会の人間生活の中にも、動物との触れ合いを持ち込め』 ――という矛盾をよしとせねばなりません(と思う)。 自然や野生動物を保護しようとするあまり、 『自然』と『都会』、『動物』と『人間』を物理的に分離しすぎると、 人間の頭の中で『自然』が観念化して、結果として、自然破壊は一層進むように思われます。 先進国発や都市部発の情報の力というものを考えると……。 だから、矛盾を矛盾のままに、ばら蒔いておくのが良いのではないでしょうか。 自然や動物に対して敏感な感性を持つ人間もいれば、鈍感と言わざるを得ない人間もおります。これははっきり先天的に。 であれば、「これが正解」という落としどころがよしやあったとしても、それを万民が等しくその通りに把握&理解できる訳がない。 で、地球の営みというのはトータルで成り立っておるのですから、 結局はトータルでバランスが取れておればいいのです。 ならば、 「実際の自然に比べれば遥かに食い足りないし、動物虐待的な側面もあるが、動物園もよし。存在意義はある」 「同様の意味でペットもよし。存在意義はある」 「必要悪的かも知れんが、愛誤的原理主義もよし。やはりこれもトータルの営みの中では存在意義はある」 存在意義のあるものは全て認めて、そうして出来る混沌をよしとするほかないのではないか。 カモシカのように、昨日の保護動物が今日は駆除対象、ということもあるのだし、 その時々に混沌の中で逡巡しながら、「一時的な決断」をしてゆくしかないのでしょう。
- 姐やん 投稿者:ひくもん 投稿日:03月01日 02時19分
- >人間ってのも捨てたもんじゃないなぁ。
考えようによっちゃ、かなり可愛いもかもっすね。 「絶望」というのは「希望」が途絶えることを言いますが、 では、何でそんな後に裏切られるような「希望」を、「事実関係とは関係なしに抱いてしまう」のか? どうして人間は幼少期に「人間はいいものだ」と、自分の父や母を実際以上に素敵なものだと思いがちなのか? 後に鎌首をもたげてくるニヒリズムは、「人はもっと素敵なものだと思っていた」という前提の上でのみ成り立つのです。 でなければ、人のしょうがなさに対して、苦々しい思いなど覚える訳がない。 人は何で「人は素敵なものだ」と思って、その人生を始め出すのでしょう? これはかなり悪くない話だと思う、ワシ。 「人間はどうしようもない! 絶望しかない!」 というような人も、高〜いところから見下ろしてみたら、 「サンタさんはいなかった!」 と嘆いている子供のように見えるもんなのかも知れんので、まぁこれはこれでまた可愛いものかも。
- ひくもん 投稿者:のりちゃん 投稿日:03月01日 10時10分
- 「うひ〜」
って言いたくなるような圧倒的に綺麗な紅葉を見たことある? 空は黄色と紅のグラデーションで覆われてて、その被いを漉かして向こうの山を見ると、やっぱり茶色味がかった紅から明るい黄色のきれいなパッチワークでさぁ。 息呑むよ。自然つぅのにはなんでこんなびっくりさせられんのかねぇ?って。 でも、細部をよくよく見たら、葉っぱが枯れかけて縮れてるのや、虫に食われてるの。汚れてるの。 ほんと、そのすごい紅葉を構成してる一枚一枚は、結構汚れてたりするのさ。 そういうもんなんだと思うのよ。 完璧じゃないもんが集まってるのに過ぎないけど、全体としてみれば、美しいって。 それは、 矛盾を抱えまくってるこの地球というか、自然というかだけれど、やはり、大きな目で見てみたら、美しいんだ、ともいえるし。 ちっちゃくて、考えも幼くて、たまにはほんとに迷惑なことをしでかす人間も、神様の大きな目で見たら、全体として「人間ってのはかわいいもんだ」とも言えるんじゃないかな。 そんじゃ、その葉っぱの一枚一枚としては、どうしましょう?って言えば、葉っぱならば、「美しく紅葉しよう」なんて思わないだろうね。 でも、今、私たちは葉っぱじゃないからさ。 小さい存在なりに、いろいろ(神様から見りゃぁ)バカな工夫したり、いろいろ(神様から見りゃぁ)幼い論議かましたり、その末絶望したりしていいんじゃなかろか。 んで、それが失敗しても、間違っていても、神様や大きい存在から見たら、可愛いんじゃないかしらん。 だからさ、何度間違っても、懲りずに、また幼い考えを実行したり、間抜けな意見を声高く叫んでもいいかもしれない。 そんでもって、そこで、わっと叫んで、「ええじゃないか」を踊り始めるのも、いいかもしれない。 なんにせよ、一枚一枚不完全な葉っぱが集まっても、全体としては、多分、息呑むくらい綺麗なんだと思う。 ところで、伊豆バイオパークって始めて聞く名前。 いったい何がそこに? バイオパークという言葉から、コケミドロがいきなり人間の形して襲ってきたりするようなイメージが・・・。
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