祭 神:阿田賀田須命 市杵嶋比賣命 説 明:ちょっと難しいので、「日本の神々」より引用します。 「当社については『延喜式』添上郡に『大。月次新嘗』とあり、『三 代実録』によれば、貞観元年(西暦859年)正月に従五位下を授 けられた。また天平二年(西暦730年)の『大和国正税帳』には、 『丸(わに)神戸、穀五十斛七斗九合(耗九斗九升四合)、定四九斛 七斗一弁五合替、依稲四九七束一把半、穎四五二束、租一一三束、 合一〇六二束一把半、用四束(祭神)、残り一〇五八束一把半』、 その頭書きには『二所神戸穀五〇斛七斗九合(神亀元年以前)』と あり、『新抄格勅符抄』にも『和爾神四戸(大和)』とある(なお、 この『丸神』『和爾神』を当社にあてることについて異説はない)。 本殿は春日造一間社で左右に末社がある。現在の祭神は、阿田賀田 須命・市杵嶋比賣命で、末社春日社に天児屋根命、八幡社に品陀別 命を祀っている。市杵嶋比賣命はのちに合祀されたもので、主神阿 田賀田須命は赤坂比古命と伝えられる。 和爾氏は古代の有力な豪族で、孝昭紀には和珥臣の始祖として皇子 天足彦国押人の名が見え、孝昭記は天皇の兄・天押帯日子命を春日 臣・大宅臣・栗田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣などワニ系十六氏 の始祖としている。また雄略紀には春日和珥臣深目の名が見える。 和爾氏はこのあたりを本貫とし、北は春日山西麓一帯にかけて広く 居住していた。赤坂比古はおそらく和珥氏の祖神であろう。赤坂の 地名は残らないが、和爾の集落の東には赤い土が露出していて、い かにも赤坂という感がある。ちなみに、神武即位前紀に層富(そほ) 県のこととして、『和珥の坂本に居勢祝という者あり』と記され、 崇神紀十年に『大彦と和珥臣の遠祖彦国葺(ひこくにぶく)とを遣 わして、山背に向きて、埴安彦を撃たしむ。ことに忌瓮(いわいべ) を以って、和珥の武スキ坂の上に鎮坐う』と記された坂は、当社周 辺(和珥坂のことかな?)に比定されている。 伝えによれば、神社の旧地はさらに東に上った和爾池の南、通称天 神山にあったという。和爾池は推古二十一年に作られたという由緒 ある池であるが、天神山の下方からかって大きな石が出土し、塔の 丸石と伝えられている。当社がいつごろから現在地に遷ったかは明 らかでない。一帯は古くから櫟本庄として広大な東大寺領をなし、 東大寺二月堂修会で読誦される神名帳の筆頭に『和爾大明神』の名 が見える」 住 所:奈良県天理市櫟本町大字和爾字北垣内1194 電話番号: ひとこと:和爾氏、と言うと、現代では、あまり耳慣れないのですが、古代に おいては、かなり有力な氏族だったようです。 しかし、「出雲国風土記」には、「語臣猪麻呂の和爾退治」なんて いう伝承もあるようで、「ワニ(日本では、古代、サメのことを、 ワニと呼びました)」との関連も注目ですね。 といいますのも、和爾氏の祖神ではないか?という、阿田賀田須命 は、出雲の主・大国主命の息子である、事代主命の子孫なんです。 事代主神→天日方奇日方命→建飯勝命→建甕尻命→豊御気主命→大 御気主命→阿田賀田須命 吾田片隅命 阿太賀田須命 という表記もあるようです。 吾田片隅命は、宗像氏の先祖でもあるのですが、この氏の一人、徳 善の娘は、尼子(あまこ)娘。 そう、大海皇子(後の天武天皇)の妻で、武市皇子の母親です。 大海皇子という名前。なぜ、「海」なんでしょう? そして、あま(海?)このいらつめ。 そして、和爾(ワニ・鰐?)。 宗像氏の奉斎する、宗像三女神は、ご存知の方も多いでしょう。 田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命。 皆、水に関する女神です。 なぜこんなに、「海」や「水」に関連する名前が多いんでしょうか? さて、神社には、その地域を支配していた氏族の祖先を祀ったものが 数多くあります。 こういった祖先が亡くなった時、 「崩(かむあが)る」という表現をします。 つまり、「神」に上がるわけですね。 死は無になることではなく、神になることである・・・というわけで す。 こういった考え方は、各国にあるようですが、さすがに一神教・キリ スト教では、「神になる」ではなく、「天国へ行く」と言う表現にな るようです。 フランスの伝説を読んでいると、頭の良い子供が、司祭の亡霊のミサ に応えたところ、亡霊の魂は救われ、その褒美に何が欲しいか尋ねら れる・・・という話しが出てきました。 その子供は「天国をください」と答えるのですね。 亡霊は、「わかった」と言い、天国へ昇って行きます。 さぁ、その子供にどんな幸せが・・・と思ったら、子供は3日後、死 んでしまいましたとさ。 お〜〜〜〜〜い!!! が、これは、「ハッピーエンド」のお話なのですね。 う〜〜〜ん。納得いかん(^^ゞ