benkyou

出石神社

izushi




  祭  神:出石八前大神 天日槍命
  説  明:由緒記を転載します。
      「出石神社は、天日槍命(あめのひぼこのみこと)が、新羅の国よりお持ちにな
       りました八種の神宝を出石八前大神として、また、天日槍命の大御霊を御祭神
       として斎祀しています。
       天日槍命は、『古事記』、『日本書紀』ともに新羅国王の王子であり、日本に
       渡来されたとし、その事蹟は記紀のほか『播磨国風土記』『筑前国風土記』逸
       文等にうかがうことができます。
       八種の神宝とは、『古事記』には珠二貫(たまふたつら)・振浪比礼(なみふる
       ひれ)・切浪比礼(なみきるひれ)・振風比礼(かぜふるひれ)・切風比礼(か
       ぜきるひれ)・奥津鏡・辺津鏡の八種としています。
       天日槍命のご子孫には、田道間守命(たじまのもりのみこと)や、神功皇后があ
       ります。
       神社の創立年代はあきらかではありませんが、社伝の『一宮縁起』には、谿羽道
       主命と多遅麻比那良岐と相謀り、天日槍命を祀ったと伝え、諸書によりますと、
       遅くとも八世紀のはじめ頃にはすでにこの地で祭祀がおこなわれていたことがう
       かがわれます。
       但馬の国一宮として当地では別名を一宮さんと呼び尊敬されています。
       天日槍命は泥海であった但馬を、丸山川河口の瀬戸・津居山の間の岩山を開いて
       濁流を日本海に流し、現在の豊沃な但馬平野を現出され、円山川の治水に、また
       殖産興業に功績を遺された神として尊崇を集めております。また、鉄の文化を大
       陸から持って来られた神ともいわれております。」
  住  所:兵庫県出石郡出石町宮内99
  電話番号:0796−52−2440
  ひとこと:この神社の境内東北隅に、禁足地があります。
       入れば祟りがあるといわれている・・・と、由緒記にあるのに気づかなかった私
       は、柵から身を乗り出してしまいました(^^ゞ

       さて、天日槍命について、どのように書かれているか、古事記・日本書紀・風土
       記逸文それぞれを転載しましょう。

       古事記 応神天皇記
      「また新羅の国王の子の天の日矛という者がありました。この人が渡って参りまし
       た。その渡って来た故は、新羅の国に一つの沼がありまして、阿具沼といいます。
       この沼の辺である賤の女が昼寝をしました。そこに日の光が虹のようにその女に
       さしましたのを、ある賤の男がその有様を怪しいと思って、その女の有様をのぞ
       き見しました。しかるにその女はその昼寝をした時から妊んで、赤い玉を生みま
       した。
       そののぞき見していた男がその玉を乞い取って、常に包んで腰につけておりまし
       た。この人は山中の谷間で田を作っておりましたから、耕作する人たちの飲食物
       を牛に負わせて山谷の中にはいりましたところ、国王の子の天の日矛にあいまし
       た。そこでその男に言うには、『お前はなぜ飲食物を牛に負わせて山谷に入るの
       か。きっとこの牛を殺して食うのだろう』と言って、その男を捕らえて牢に入れ
       ようとしましたから、その男が答えて言うには、『わたくしは牛を殺そうとは致
       しません。ただ農夫の食物を輸送しているだけです』と言いました。それでも
       しませんでしたから、腰につけていた玉を解いてその国王の子に贈りました。よ
       ってその男を赦して、玉を持って来て床の辺に置きましたら、美しい嬢子になり、
       ついに婚姻して本妻としました。その嬢子は、常に種々の珍味を作って、いつも
       その夫に進めました。しかるにその国王の子が心奢りして妻を罵りましたから、
       その女が『大体わたくしはあなたの妻になるべき女ではございません。母上のい
       る国に行ってしまいます』と言って、ひそかに小船に乗って逃げ渡って来て難波
       に留まりました。これは難波の比売碁曾の社においでになる阿加流比売という神
       です。
       そこで天の日矛がその妻の逃げたことを聞いて、追い渡って来て難波に入ろうと
       する時に、その海上の神が塞いで入れませんでした。よって更にかえって、但馬
       の国に船泊てをし、その国に留まって、但馬の俣尾の女の前津美と結婚して生ん
       だ子は多遅摩母呂須玖(たじまもろすく)です。その子が多遅摩斐泥(たじまひ
       ね)、その子が多遅摩比那良岐(たじまひならき)、その子は多遅摩毛理(たじ
       まもり)・多遅摩比多訶(たじまひたか)・清日子(きよひこ)の三人です。こ
       の清日子が当摩(たぎま)のめ(口偏に羊)斐と結婚して生んだ子が、酢鹿の男
       (すがのもろお)と菅竈由良度美(すががまゆらどみ)です。上に挙げた多遅摩
       比多訶がその姪の由良度美と結婚して生んだ子が葛城の高額比売(たかぬかひめ)
       の命で、これが息長帯比売の命の母君です。
       この天の日矛の持って渡ってきた宝物は、玉つ宝という玉の緒に貫いたもの二本、
       また浪振る領巾(ひれ)・浪切る領巾・風振る領巾・風切る領巾・奥つ鏡・辺つ
       鏡、合わせて八種です。これらは伊豆志の社に祭ってある八神です。」

       日本書紀 垂仁天皇紀
      「三年春三月、新羅の王の子、天日槍がきた。持ってきたのは、羽太の玉一つ・足
       高の玉一つ・鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉一つ・出石の小刀一つ・出石の桙一つ・
       日鏡一つ・熊の神籬一具、合わせて七点あった。それを但馬国におさめて神宝と
       した。
       −−一説には、初め天日槍は、船に乗って播磨国にきて宍粟邑(しさわのむら)
       にいた。天皇が三輪君の祖の大友主と、倭直の曾の長尾市とを遣わして、天日槍
       に『お前は誰か。また何れの国の人か』と尋ねられた。天日槍は『手前は新羅の
       国の王の子です。日本の国に聖王がおられると聞いて、自分の国を弟知古に授け
       てやってきました』という。そして奉ったのは、葉細(はほそ)の珠、足高の珠、
       鵜鹿鹿の赤石の珠、出石の刀子出石の槍、日の鏡、熊の神籬、胆狭浅(いささ)
       の太刀合わせて八種類である。天皇は天日槍に詔して、『播磨国の宍粟邑と、淡
       路島の出浅邑(いでさむら)の二つに、汝の心のままに住みなさい』といわれた。
       天日槍は申し上げるのに、『私の住む所は、もし私の望みを許して頂けるなら、
       自ら諸国を巡り歩いて、私の心に適った所を選ばせて頂きたい』と言った。お許
       しがあった。そこで天日槍は宇治河を溯って、近江国の吾名邑に入ってしばらく
       住んだ。近江からまた若狭の国を経て、但馬国に至り居処を定めた。それで近江
       国の鏡邑の谷の陶人は、天日槍に従っていた者である。天日槍は但馬国の出石の
       人、太耳の娘で麻多烏(またお)をめとって、但馬諸助(もろすく)を生んだ。
       諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。また清彦は田
       道間守(たじまもり)を生んだという。」

       播磨国風土記 揖保の里
      「粒丘(いひぼをか)と呼ぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の
       河口に着いて、宿所を葦原志挙乎(あしはらしこを)命にお乞いになって申され
       るには、『汝はこの国の主たる方である。私の泊まるところを与えて欲しい』と。
       そこで志挙は海上にいることを許した。その時客神(まれびとがみ)は剣を持っ
       て海水を掻き回してこれに宿った。すなわち主の神は客の神のこのたけだけしく
       盛んな行為に恐れかしこんで、客神よりも先に国を占め様と思い、巡り上がって
       粒丘まで来て、急いで食事をした。すると口から粒(飯粒)が落ちた。だから粒
       の丘とよぶ。」

       筑前国風土記 冶土郡
      「高麗の国の意呂山(おろやま)に天から降ってきた日桙の末裔の五十跡手(いと
       て)とは、私のことです」

       見てみると、天日槍命が、誰の治世に日本へやってきたかは、バラバラです。

       古事記では、応神天皇の時代・・・となってますが、日槍の子孫に、応神天皇の
       グレートマザー・神功皇后の名前が上がってますからね(^^ゞ
       渡来したのは、応神天皇の時代よりも、5代ほど前ということになりそうです。
       ・・・ってことは、崇神天皇の時代か、垂仁天皇の時代になりますから、日本書
       紀の記述とだいたい一致しますね。

       ただ、播磨国風土記では、「葦原志挙乎」の治世ということになっています。
       葦原志挙乎とは?
       別の表記をすれば、「葦原醜男」

       日本書紀の素戔鳴尊大蛇退治のくだり、一書(第六)には、
      「大国主神は、大物主神とも、また国作大己貴命ともいう。また、葦原醜男ともい
       う。また八千戈神ともいう。また大国玉神ともいう。また顕国玉神ともいう。そ
       の子は皆で百八十一柱おいでになる。」
       とあります。
       つまり、葦原醜男とは、大国主神の別名なんですね。

       記紀によれば、大国主神(大己貴・大物主)の治世は、高天原から、瓊々杵尊が
       天降る以前のことですから、随分前に溯ることになります。

       ・・・まぁ、大国主神の治世が、記紀の主張する時期よりずっと長く続いていた
       というのならば、話は別ですけど(~_~)

       天日槍の渡来時期が不安定なのか。
       日本の歴史が不安定なのか。
       どっちでしょう(^^ゞ

       さて、この天日槍は、自身も国造りの英雄ですが、その子孫の顔ぶれも、豪勢で
       す。

       垂仁天皇のために、常世で、不老不死の果実「トキジクの実」を採取してきた、
       多遅摩毛理。

       そして、息長帯比売とは、神功皇后のことです。

       面白いのは、「惟賢比丘筆記」によると、神功皇后は、日本出身ではなく、震旦
       国陳大王の娘・大比留女であったとしています。

       彼女は、太陽の光に感じて妊娠し、父なし子を身ごもったことで、父王により、
       うつろ船に乗せられて、流されてしまうのです。

       つまり、彼女自身も、「太陽により妊娠」しているわけです。
       生まれた子供は、後の応神天皇。

      「赤留姫」の母親は、名前もない賎の女でしたが、その子孫たる神功皇后は、自身
       が、大王の娘。
       そして、息子は、日本へやってきて、その国の天皇となったわけですから、かな
       りのパワーアップ(?)ですね。

       それにしても、この一族は、「太陽による妊娠」と、もう一つ共通したテーマを
       持つように思います。

       それは、「カプセル状のもの」。

       赤留姫が化身する前の「赤い玉」も、それが「卵」だったと考えれば、やはり、
       カプセル。
       神功皇后の「うつろ船」も、カプセルです。

       それから、もうひとつ無理から言うならば、「罪の償い」というモチーフでしょ
       うか。

       赤留姫の物語では、賎の男は、殺生の罪を見逃してもらう代わりに、赤い玉を、
       差し出しています。

       神功皇后は、「不義の妊娠の罪」の償いのために、うつろ船で流される・・・と
       考えることもできるでしょう。

      「太陽による妊娠」「閉ざされた世界」「罪の償い」

       太陽による妊娠というのは、
       母親側から見ると、父親のない子供が生まれることですね。
       子供側から見ると、自分が「驚くほど尊い父親から生まれた御子」である、とい
       うことになります。

       子供側からの視点はよくわかります。
       誰だって、「私は、もしかしたら、すごく高貴な方の落としだねかも」などとい
       う、愚にもつかない想像をしたことはあるでしょう?

       そういう発想は、別に珍しくありません。

       既に、高貴な身分の応神天皇にしてみれば、もっと高貴なもの・・・といえば、
      「神=太陽」となってしまうのは、肯けます。

       ただ、母親側からの視点で見ると、それは少し違います。

       もちろん、父のない子を妊娠してしまったことへの言い訳という、短絡的な理由
       もあるかもしれませんが・・・。

       そこには、「父系社会からの解放」というテーマを見つけることもできないわけ
       ではないわけで(くどいな(~_~))。

       彼女達の時代、母親の身分が大切な母系社会なのならば、「太陽を夫にした」と
       いうのは、単に、「自分の夫を法外に高貴だと偽る」という心理からきた嘘かも
       しれませんが、

       父系社会でのことだと考えれば、「太陽の夫」は、「人間の男からの解放」とい
       う、ある種、前向きなパワーを感じます。

       そんな前向きな女性が、「閉ざされた世界」を潜り抜け・・・。
       閉ざされた世界を潜り抜けるということは、「生まれ変わる」こと。
       つまり、「罪を償い、新しい自分に生まれ変わること」に繋がるでしょう。

       新しい自分に生まれ変わった彼女らの、その後の事蹟は?
       実際に辿ることはできませんが、同じ女性として、頭の中で、何度も想像してみ
       たくなるのです。

home 神社のトップに戻ります back