祭 神:吉備真備 説 明:吉備真備は、遣唐使・陰陽師・儒学者として活躍した、天才です。 この神社では、「囲碁の神様」として説明されていました。 この神社の創建は、明らかではありませんが、境内に建っていた、 「創建1200年記念碑」は、昭和50年代のもの。 八世紀の創建なのでしょう。 住 所:兵庫県尼崎市金楽寺町2丁目 電話番号: ひとこと:吉備真備は、持統七年(西暦693年)年頃、〜備中国」(岡山 県)に生まれたと伝えられる、学者・政治家・最高の知識人です。 霊亀三年(西暦717年)年入唐し、天平七年(西暦735年)年 に日本に戻り、経書、史書を初めとして、天文、暦法、音楽、兵 法などの新しい知識を習得し、「唐礼」「大えん暦経」「楽書要 録」などの書籍や楽器、弓矢などを朝廷に献上するんです。 そして、その後、聖武天皇・光明皇后夫妻の寵愛を受け、着々と 出世します。 学者から大臣まで進んだのは、菅原道真以外には、この真備だけ だと言いますから・・・。すごいもんです。 しかし・・・。菅原道真と同じなのは、天才度だけじゃありませ ん。 藤原氏の陰謀により、左遷されるところまで一緒(T_T) 藤原恵美朝臣押勝により、排除されちゃったのだと言われていま す。 藤原恵美朝臣押勝は、弓削道鏡が現れるまで、女帝・孝謙天皇の お気に入りだった男ですから、この人物に睨まれては、手も足も でませんね。 ただ、この吉備真備が怨霊にならなかったのは、その後、恵美押 勝は、没落し、それに伴い、真備は、右大臣まで昇進したからで しょうか。 そして、宝亀六年(西暦775年)真備が81歳で亡くなった時 には、軍略・建築・儒教の知識などが称揚されたのだそうです。 晩年は、幸福だったのですね。 続日本紀の、「光仁天皇(宝亀六年十月二日)」の項には、吉備 真備の生涯について、賞賛の言葉が連ねられています。 曰く、 「唐において、名を挙げたのは、吉備真備と阿部仲麻呂だけである」 などと。 さて、この吉備真備の九代目の子孫は、賀茂保憲。 安倍晴明の師匠ですね。 安倍晴明の父・保名は、阿部仲麻呂の末裔だと伝えられています。 そこで、「江談抄(ごうだんしょう)」という書物を見ましょう。 藤原実兼の撰による書物で、長治元年(西暦1104年)年頃か ら纏められたもので、大江匡房の談話筆録集だといわれているの ですが、 これには、真備が入唐したとき囲碁や野馬台詩などで試されたが、 鬼(阿倍仲麻呂)に助けられて帰国を許されたという伝説が納め られているんです。 鬼とは幽霊のこと、吉備真備と阿部仲麻呂の関係がそこに見えて きますね。 阿部(安倍)家と吉備(賀茂)家の関係は、いつからのものなの でしょう? さてさて、最後に、この尼崎の地と、吉備真備の関係は? 吉備真備が薨じてすぐ後程に、この神社は創建されています。 何か、深い関係があったのだと想像されます。 この当たりは、古代、海岸線でしたから、唐からの船が、この地 に着いたこともあったのかも知れませんね。