benkyou

車折神社

kurumazaki




  祭  神:清原頼業公
  説  明:清原頼業公は、天武天皇の皇子・舎人親王の御子孫。
       高倉天皇に仕えた大学者なのだそうです。
       神社の創建は、文治五年(西暦1189年)。公が薨去になった
       後なのだそうです。

       清原氏は、代々家学として、経書と法律の学問を伝えた家柄なの
       だそうですが、特に、頼業公は両道の学問に秀で、明経、明法の
       博士(経書および、律令、格式の大学博士)を兼ね、高倉天皇に
       御講書を申し上げる侍読という役を勤め、又、穀倉院別当(穀類
       を保管した平安時代の官庫の長官)、或いは、越中の権守(正員
       以外の官職)等の要職にあって、常に政務の諮問に応える等、当
       時、並びなき、大学者であったことを、時の関白・九条兼実が、
       つよく称えているのだそうです。

       公が薨去の後、公の領地に、この神社が創建されましたが、当時
       は、公の好まれた桜が多く植えられていた為、、「桜の宮」と呼
       ばれていたようです。
       ところが、後に、後嵯峨天皇(西暦1242年〜1246年)が、
       大堰川に御遊幸の折り、この社前において、御召車の轅が折れた
       ので、「車折大明神」との御神号を賜り、正一位を贈られたのだ
       そうです。
  住  所:京都市右京区嵯峨朝日町
  電話番号:075−861−0039
  ひとこと:清原頼業公に関して、おもしろいエピソードを探してみたので
       すが、大学者であったこと以外には、見つかりませんでした。

       ただし・・・。

       保元元年(西暦1156年)七月に勃発した保元の乱の敗北者。
       敗れて讃岐へ流され、帰京も叶わず、長寛二年(西暦1164年)
       八月二十六日に配所で、四十六歳で崩御した上皇。
      「讃岐院」をご存知でしょうか?
      「雨月物語」の「白峯」にも登場する、大怨霊、「崇徳院」のこと
       です。
       
       この後、彼の祟りにより、洛内に大火や疫病が発生した為、讃岐
       院より崇徳院に改められたのですが、この「崇徳院」という諡号
       を奉ったのが、この、清原頼業公だったようです。

       この「崇徳」という諡号により、祟りが治まったのならば、頼業
       公は、怨霊調伏に成功した、呪術者でもある、と言えるのじゃな
       いでしょうか。

       現代の私達にとって、全く身近じゃない「闇」が、毎晩訪れた、
       平安時代、それはたくさんの妖怪・物の怪が、イキイキと、活躍
       してたんでしょうね。

       しかし、この怨霊・讃岐院は、「崇徳」という名前に満足して、
       祟りを収めたのでしょうか。

       違うような気がします。

       心理学の実験で、無作為に選んだ精神的に安定した、被験者20名
       を2チームに分けて、1チームを看守の役割、他チームを囚人の役
       割にします。
       そして、1週間程その役割を演じさせ続けると・・・どうなるか、
       というのがあります。

       そう。1週間後、看守側のチーム人は、元々は精神的に安定した人
       達であったにも関わらず、横暴に居丈高になっていたのです。
       そして、同じく、囚人側にチームの人達は、おどおどとするように
       なっていました。
       つまり、人というのは、「役割」「名前」に相応しい人格になって
       しまう、ちっぽけな生き物でもあるようなのです。

       讃岐院は、きっと、思う存分、恨む相手を祟りたかったでしょうね。
       でも、「崇徳院」なんて名前で呼ばれちゃぁ・・・。
       な〜んもできなくなっちゃいますね。口惜しかったろうなぁ?

home 神社のトップに戻ります back