祭 神:角凝魂命 天ノ湯川田奈命 説 明:延喜式内社。 栞には、 「古代河内の豪族・美努連(みぬのむらじ)・三野縣主が祖神を斎 き祭った神社である。『新撰姓氏録』河内神別には、美努連は角 凝魂命の四世の孫・天の湯川田奈命から起こるとある。 三野縣主は三野縣の長で、『日本書紀』清寧天皇条に河内三野縣 主小根がみえる。 天武天皇十三年(西暦685年)に三野縣主は連の姓を賜う。 その後、美努の氏名は美奴・三野・三努とも書き、美努連は、三 野縣主の後裔氏族である。 美努連の一族の三野連岡麻呂は、大宝二年(西暦702年)第七 次遣唐使の一行に加わり、見聞を広めて帰国し、文化の交流に尽 くした。 また美努連浄麻呂は慶雲三年(西暦706年)遣新羅大使となり、 新羅国王の勅書に浄麻呂の名が記されている。 また彼は『懐風藻』に歌を残し、外交・文学に大きく貢献してい る。 その他、三野連石守は『万葉集』に名を連ね、美奴連智麻呂・美 努連清庭・美努連清名などの一族とともに、対外交渉、学問分野 での活躍が目立っている。 また信貴山資材宝物帳に延喜十七年(西暦917年)美努常眞・ 有貫などが若江郡三條竹村里を、承平六年(西暦936年)美努 忠貞が渋川郡三條里苅里を施入したとの記事があり、 『教興寺鐘銘』に、『河内国高安郡教興寺洪鐘一口』弘安三年(西 暦1280年)康辰正月廿五日奉鋳する所也とあり、施主筆頭に 美乃正吉の名が刻銘されている。 社名の御野縣主hは、三野縣主と同じである。 なお同系の氏族に鳥取氏がある」 とあります。 住 所:大阪府八尾市上之島町南1丁目71番地 電話番号:0729−24−0966 ひとこと:角凝魂命は、天御中主命→天八下尊→天三下尊→天合尊→天八百 日尊→百日萬魂→神魂命と続く次の御子にあたる由緒正しい神様 なようです。 さて、天湯川田奈命と言えば、日本書紀の垂仁天皇紀に出てくる 英雄です。 「垂仁天皇の御子・誉津別命は三十歳になり、長いあご鬚が伸びる まで赤児のように泣いてばかりで物を言われなかったが、ある冬、 白鳥が大空を飛んでいるのを見られて、『あれは何物か』と言わ れた。 そこで、鳥取造の祖、天湯河板挙が『私が必ず捕獲して参りまし ょう』と出雲まで行き、ついに捕まえた。 誉津別命はそれによってついに物を言えるようになった」 とあります。 それにしても、誉津別命は、立太子はしなかったにせよ、天皇に、 非常に寵愛された御子です。 なぜか?といいますと、その母親の為なんですね。 彼の母親の名は、狭穂姫。 日本書紀による彼女に関する記述を見てみましょう。 「皇后の兄・狭穂彦王は謀反を企て国を傾けようと、妹に『兄と夫 のどちらが大事か?』と尋ねます。 皇后は、意味がわからないながらも無邪気に、『それはお兄様で す』と答えたところ、狭穂彦王は、我が意を得たりと、天皇暗殺 をそそのかすんです。 曰く、『皇后の地位は容色が衰えたら、揺るぐかも知れないが、 兄妹の間柄が揺らぐことはない』と。 狭穂姫は、びっくりしながらも兄から匕首を受け取り、衣の中に 付けます。 そして、天皇が皇后の膝枕で寝ている時、姫は、逡巡します。 『ことを起こすなら今だ。だけど、私にはできない』そして、涙を 一粒、天皇の頬に落とすのです。 冷たい感触に目を覚ました天皇が、『錦色の小さな蛇が私の首に 巻き付き、大雨が狭穂から降ってきて顔をぬらす夢を見た』と、 おっしゃったので、姫は謀の全てを打ち明けてしまいます。 でも、天皇は、優しく許すんです。 『お前の罪ではないよ』と。 そして、天皇は狭穂彦を攻めます。 姫は、我が子・誉津別命と共に、狭穂彦が篭城している稲城に入 られ、死を覚悟します。 が、天皇はそれでも、姫を生かせたいんですね。 狭穂彦王に、 『姫とその御子を差し出してくれ』と要求するのです。 でも、姫は、『私の罪は許されないことを知りました』と御子だ けを渡し、兄と一緒に火の中に身を投じました」 天皇の姫に対する愛着がひしひしと伝わってきますね。 しかし、この最後のくだり、姫が稲城に篭ったところは、古事記 の記述が秀逸です。 「天皇が沙本比古の王をお撃ちになられるとき、沙本比売は堪え得 なくて、兄が篭っている稲城にお入りになりました。 皇后はこの時妊娠しておられた上、天皇がお愛し遊ばされて、三 年にもなっていたので、天皇は俄かに軍を返しました。 その間に御子が生まれました。 そこで比売は、城を出て、天皇に、 『もしこの御子を自分の御子だと思ってくださるなら、育ててくだ さい。』とおっしゃいます。 天皇は、『憎いのは、兄の沙本比古であって、皇后に対する愛は 変わらない』と、比売に帰ってくるように薦めました。 でも比売は帰らず、そればかりか、髪を剃った上でそれを顔に纏 わらせ、また玉の緒を腐らせて御手に三重に巻き、そして、酒で 召し物を腐らせて完全なお召し物のように着て、天皇がしかけた 炎の中に座って、じっと待っていたのでした。 比売が予測した通り、天皇の使者がやってきて、比売と御子を救 い出そうとします。 力の強い使者は、まず御子を救い上げます。 そして、比売の髪をつかんで炎から奪い上げようとすると・・・ 髪は、するりと比売の頭から離れてしまいます。 御手を取ろうとしても、玉の緒が絶え、衣服を引こうとすると、 召し物は裂けてしまい、使者は仕方なく、比売を炎の中に置いて、 天皇のところへ帰ります。 『御子は助けましたが、比売を救うことはできませんでした』と。 天皇は悲しみにくれながら、御子を、『炎の中で生まれたから、 本牟智和気』と、名づけたのです。」 姫は、御子を助けるために、最後まで炎の中で静かに待っていた のですね。 そして、使者から逃れるために講じた手段が美しいではありませ んか。 こんな風に自分から去っていった姫を忘れられないのは、当然の ことでしょう。 そんなわけで、誉津別命は、格別の愛情を父から受けることにな ったのです。 天皇は裏切られて、捨てられてなお、姫に対する愛情を失いませ んでした。 しかも、姫の「この御子が天皇の御子だと思っていただけるのな ら」という言葉は、兄との間の子供ではないか、と周囲が疑って いたということを暗示していますね。 それでも、なお、天皇は姫を信じ、姫を助けようとし、それが叶 わなければ、御子を寵愛します。 姫には、どんな美点があったのでしょうか? ところで、白鳥を捕まえてきたら、誉津別命がしゃべれるように なった、というのは、「白鳥」は誉津別命の魂であったというこ となのだそうです。 古来・鳥は人間の魂だと考えられていて、その色が白ければ白い ほど尊いと考えられていました。 誉津別命の魂は、真っ白に清かったのでしょう。 そして、その母である狭穂姫の魂はきっともっと清かったのでし ょうね。