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大仁保神社

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  祭  神:仁徳天皇
  説  明:「日本書紀」皇極天皇紀に、
      「皇極三年冬十一月、蘇我蝦夷は長直に命じて大丹穂山に桙削
       寺を建てさせた」
       とあります。
      「大丹穂山」と「大仁保」が一緒なのかどうかはわかりません。
       ただ、この神社は、山の上に建てられており、見晴らしがよ
       く、「狼煙台」としても、「見張り台」としてもよい位置に
       あるところから、天皇と対立していた当時の蘇我氏が、この
       地に、なんらかの施設を設けたことはあり得るのではないで
       しょうか。
  住  所:奈良県高市郡明日香村入谷 
  電話番号:
  ひとこと:今現在、この神社は、同じく明日香村にある、「飛鳥川上坐
       宇須多伎比賣命神社」に合祀されています。

       さて、皇極天皇の時代、実質上の権力者は、蘇我氏でした。
      「大丹穂山の桙削寺」と同じ条に、面白い記述があります。

      「蘇我の大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘橿岡に並び建てた。
       大臣の家を上の宮門(みかど)と呼び、入鹿の家を谷の宮門
       といった。男女の子たちを王子(みこ)といった。」

       つまり、実質上、「王」「帝王」「天皇」は、蘇我氏だった。
       ということですね。

      「大化の改新」は「クーデター」と言われます。
       つまり、最高権力者を亡き者にし、政治の基盤をひっくり返
       した、ということです。

       日本書紀では、この時の天皇は、「天智天皇」及び「天武天
       皇」の実の母親・「皇極天皇」がこの国のトップだった、と
       なっていますけどね。

       さて、この大仁保神社が、(日本書紀による)天皇家との間
       が緊迫したものになってきていた時期に、蘇我蝦夷により建
       てられたものだとしたら、祭神が「仁徳天皇」である、とい
       うのは、少し不思議な気がします。

       仁徳天皇は、確かに、民をよく治めた良い天皇である、とい
       われていますが、この天皇の御世に、大きな戦はなく、武勲
       の天皇である、というイメージではないからです。

       武勲なら、父親・八幡大神たる応神天皇を祀るでしょう。

      「民をよく治めた天皇」を祀る人はどういう人間でしょうか?

       少なくとも、天下は自分の掌中にあり、それを揺るぎのない
       ものだと信じている人間ではないか、と思います。

       としたら、この次の年・皇極4年6月に起きた大化の改新は、
       蘇我氏にとっては寝耳に水の出来事であったのかも知れませ
       ん。

       ・・・、もちろんこんな考えはお遊びです。お遊びだけれど、
      「日本書紀」が正面の顔だとしたら、横顔や、右斜め45度の
       顔っていうのを発見するのも楽しいじゃないですか?

       もしかしたら、大化の改新は、「中大兄皇子」と後から勝手
       に「名乗った賊」の、のるかそるか、の賭けに近い革命だっ
       た・・・って考えるのも、楽しいでしょう?

       どちらにしても、天下を取った者勝ちなんですから。

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