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大阪天満宮

osakatenmangu




  祭  神:菅原道真公
  説  明:栞によりますと、
      「大阪天満宮は、贈太政大臣正一位菅原道真公を主神として奉祀して
       あります。
       天暦三年(西暦949年)、村上天皇の勅願に依って大将軍社の森
      (後に天神の森と称せられ、現在南森町と云う)に御鎮座になり、以
       後千有余年、寸尺も位置を変更することなく現在に至りました。
       此の間正平二年(西暦1342年)楠木正行と山名時氏との合戦、
       元亀元年(西暦1837年)の大塩の乱等に焼失しましたが現在の
       本殿は弘化二年(西暦1845年)の建築でその様式は権現造であ
       ります。
       寝殿造りの梅花殿、百畳敷の参集殿、鉄筋コンクリート三階建の天
       満宮会館其の他建造物が櫛比しています。」
      「道真公は幼少の時から学問を好み、島田忠臣という学者に教えを受
       けられました。五歳の時に『美しや紅の色なる梅の花、あこが顔に
       もつけたくぞある』ご和歌をお詠みになり、又十一歳の時、『月夜
       見梅花』という題で、
      『月輝如晴雪 梅花似照星
       可憐金鏡転 庭上玉芳馨』
       と詩作され人々を驚かせました。
       道真公の最初の詩歌が梅花であり、公は生涯を通じて埋めを愛好さ
       れました。
       道真公の母君は深い信仰心と、教育に対する正しい考えと指導方法
       を持っておられました。観音様に日参して公の成長を祈願されまし
       たし、十五歳の時一人前になったお祝いの儀式である元服の時、
      『久方の月の桂も折るばかり家の風をも吹かせてしがな』という歌を
       与えて、前途を祝福し励まされましたので、益々勉学を励み後には
       文章博士の学位を得られました。」
       などとあります。
      「讃岐守の仁政」として、
      「道真公は四十二歳から四十六歳まで讃岐(香川県)におられました。
       ある時疫病が流行しましたが、公は医師を連れて家毎に訪問し予防
       治療に努力し、さすがの疫病もすっかり影をひそめました。
       又、ある年国内に飢饉がありましたが、この時、公は朝廷の許しを
       待たず、倉庫を開いて、米を窮民に施しました。後で朝廷に報告し
       ましたが、公の正しい処置にお褒めの言葉を賜わりました。
       仁和四年には、久しい間雨が振らず、農家の人々は旱魃に苦しみま
       した。公は身を清めて城山の神に雨をお祈りになりますと、公の誠
       の心が天に通じたのか、沛然と雨が降り、人々を救ったということ
       です。」
       と記されています。
  住  所:大阪市北区天神橋2−1−8
  電話番号:06−6353−0025
  ひとこと:道真公が右大臣に叙せられたのは、55歳の時。
       大宰府左遷が、57歳の時。
       明石に流されただけで、「世も末だ〜」と嘆いた、光源氏とは違い、
       道真公は、讃岐の守に任じられた時は、善政をされたようです。
       讃岐と大宰府、そんなに違うものでしょうか?

       実在した「人」が神になった例は、近世では、豊臣秀吉公・徳川家
       康公・楠木正成公などがおられます。
       勿論、古代になれば、祖先を神として祀った例は枚挙に暇がないで
       しょうけれど、はっきりと「実在」を確認できる人物で、「神」と
       なった、最古は、菅原道真公を含む、平安の御霊神達ではないでし
       ょうか。
       原初、生きていた人間は、魂が肉体から抜けた時、「崩(かむあが)
       り」つまり、神に上がったのだと考えます(古典では、天皇家だけ
       の表現のように見受けますが、原始においては、素朴に、誰でもが
       同じだったのではないでしょうか?)。
       その考え方が、変わってきたのでしょう。平安時代、天皇でない人
       は、死後、痛烈な祟りをなすことによって神になりました。

       そして、時代は下り、豊臣秀吉公・楠木正成公など、人々は尊敬す
       る人が亡くなった後、神として祀るようになります。
       しかし、これも、よっぽどの秀でた人間だけが神として扱われてい
       ます。

       近世、人間が神様となったのは、「護国神」でしょう。
       戦争で亡くなった英霊を祀った神社は全国的にあります。

       でも、私達普通の人間は、「神」になるのは、無理なんでしょうか?

       人が亡くなると、親族は、「穢れ」を理由に、鳥居をくぐらせない
       神社があります。

       しかし、穢れには有効期限があると思うのです。

       穢れというのは、つまり、「汚いもの」です。
       汚いという感覚の元はなんでしょう?病気の汚染の元?臭いの元?
       とは言え、自分の手を顕微鏡で見てください。多分、病原菌がうよ
       うよしているはずです。それを何をことさら、「汚い」、と他の物
       を触るのを躊躇うのでしょうか?

      「生きているもの」「用のあるもの」から離れたものを、「穢れ」と
       言うのでしょう。
       つまり、「用のある傘」は、便利な必需品だけれども、骨が折れて、
      「用のあるものでなくなった傘」は、ゴミで、誰も振り向きもしませ
       ん。
      「爪」は、手にある時は、大事な、時にはアクセサリーにもなるもの
       ですが、「切って飛んだ爪」は汚いと言われます。

       ただ、傘は、金部分を溶かしてしまえば再利用されるし、布の部分
       は土に、自然に戻ります。
       爪も、自然に戻ります。それどころか養分になるかも知れません。

       人間の魂もそうではないのでしょうか?

       人の体から離れたばかりは、確かに、「穢れ」「幽霊」などと言わ
       れます。
       が、時が経てば、きっちり、「聖なるもの」に戻っていくのでは。

       ある神社の宮司にお尋ねしましたら、その神社では、亡くなって1
       3年目に、死者の魂は、「神」とされるのだ、とおっしゃりました。
       ただ、神社によって、その年数は微妙に異なるともおっしゃってい
       ましたが。
       神になってからも、毎年徳を積み、格を上げていかねばならないそ
       うですが、私達、普通の人間も神になる、と神社では考えているの
       ですね。

       さて、道真公は、雷によって恨む人間の命を奪いました。
       中国の古典を読んでいると、雷に撃たれて死ぬのは、よっぽどの悪
       事をした人間だけだ、と考えられていたようです。
       ということは、道真公を雷神と考えた人達は、道真公を、祟り神で
       なく、悪を糺す神様と見たのかも知れません。

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