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蹉だ神社

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  祭  神:菅原道真公
  説  明:境内案内板を転記します。
      「創立年代 天暦五年(951年)
       当社は延喜元年(901年)正月、菅公が大宰権帥として九州は筑紫
       の大宰府へ御左遷の途中、此山にて暫時御休息あり。遥に京の都を望
       み深く名残を惜しみて西へ旅立てり。此の休息ありし山を菅相塚と称
       ふ。然るに都に残られし御公達方の中にも御寵愛浅深かりし苅屋姫の
       君、御別れを惜しまれ御跡を慕ひて此地にならせられしか、遂に及ば
       ずして遥に西天を望み蹉だ(あしへんに「陀」のつくり)して悲嘆せ
       らる。其旧跡を蹉だ山と名つく。
       菅公は御丈三尺二寸の御坐像を配所にて御手ずから作らせ給ひしを村
       人らが当山に社殿を造営し近郷二十有五個村の産土神「総社」として
       斎き祀りしか、慶長十九年(1614年)庚戌の兵乱に社殿は炎焼し
       たれども御神像のみは厳然として坐ぜしまししかば再建せられ、中振
       出口両村の産土神として奉祀せられる。創建より幾多の変遷を経て、
       明治五年より郷社に列せられ、翌六年二月堺県より祠官を派遣し爾後
       社職を欠かさず明治二十二年三月社殿を改築し以って今日に至れり。」
  住  所:大阪府枚方市南中振1−7−18
  電話番号:
  ひとこと:「蹉だ」とは、難しい言葉ですが、「蹉」も、「だ」もつまづくとい
       う意味があるんだそうで、三省堂の大辞林によれば、
      「1.つまずくこと。また、ぐずぐずして空しくときを失うこと
       2.落ちぶれること。不遇なこと。また、そのさま。
       3.食い違っていること。間違っていること。また、そのさま」
       と説明されています。

       なんだか意味深ですね。
       1の意味だと、菅公の愛娘・苅屋姫が、菅公を追いかけてきたのに、
       結局会えなかったことを表現した社名だと思えますが、2の意味だ
       と、菅公その人そのものを表現した社名に見えます。

       菅公ゆかりの地って、大阪は、北から南まですごく広く分布してま
       す。

       まず、「桑原」・・・菅公の荘園ですね・・・があった、岸和田界
       隈。これが南ですね。

       次は、菅公の祖先、野見宿禰が、「土師氏」という姓と一緒に拝領
       した土地は、交野のあたりだったそうです。これが北。

       しかし、野見宿禰が拝領したのは「河内」とありますから、交野界
       隈だけとは限りませんね。現在の河内は、交野界隈から、河内長野
       まで、すごく広範囲です。

       その他、菅公大宰府左遷の折、立ち寄った地は、数え上げたら、十
       はくだらないんじゃないでしょうか?

       それだけたくさんの人に挨拶に廻った菅公。
       たくさんの人に愛される人柄だったのでしょう。

       さて、菅公の娘、苅屋姫に、より縁深いのが、この神社です。
       苅屋姫は、ここまで父親を追いかけてきたのだけれど、菅公は既に
       旅立った後だった、というのです。
       旅立った後、といっても、陸路ならば、また追いかけていけばいい
       話ですから、ここから船に乗ったのでしょうか?

       さて、この苅屋姫、「菅原伝授手習鑑」では、菅公左遷の引き金と
       なります。

       この苅屋姫と恋仲なのが、斉世親王。
       時の天皇の弟にあたります。
       天皇の病気平癒祈願の祈祷の式の途中、親王は抜け出して、刈屋姫
       と密会しているわけです。
       兄の病気よりも、デートの方が大事・・・というわけですね。

       ところがそれがバレそうになり、慌てて駆け落ちしたというわけ。
       なんとも、若気の至りというか、段取りできない奴らというか。

       そして、そのせいで、菅公は、
      「天皇を廃して、弟に譲位させ、その弟に娘を嫁がせようとした」
       という、まわりくどい濡れ衣を着せられてしまうのです。

       これが、菅公左遷の直接の理由だ、というわけです。

       若い男女の色恋沙汰を、謀反に結びつける藤原時平が大人げない
       のか、天皇の病気平癒祈願の式が重要な儀式であることを自覚で
       きない親王が、考えたらずなのか。

       自分が若い頃のことを考えると、前者・・・ということにしとき
       たいんですが、いかがでしょうか(^^ゞ??

       そりゃまぁ・・・この時代、病気は現代よりも恐ろしいものだっ
       たでしょうし、その儀式を中座するってのは、重大な意味を持つ
       ものだったのかもしれませんけどねぇ・・・。

       なんにせよ、この蹉だ神社では、苅屋姫は、考え足らずの若い娘
       ではなく、親孝行な娘として愛されているようです。

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