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八幡神社

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  祭  神:応神天皇
  説  明:境内看板によると
      「伊福寺跡
       本郷町と高田城跡との間に位置する。
       現在の八幡神社はその鎮守として寺域内に祀られたもの。中世
       には平田荘内にあり、興福寺の末寺に属した。
       当時関係の遺物には、新庄町南道穂にある法林寺本尊として現
       存する阿弥陀如来、五條市内で所蔵されている大般若経六〇〇
       巻(鎌倉時代)がある。
       写経は当時の住持実賢が建久九年(西暦1198年)から、十
       五年の歳月を費やして筆写したもので、その跋文に次のように
       延べている『於大和国葛下郡高田郷伊福寺内ニテ一筆書写之願
       主円阿執筆実賢』(巻四一 建久九年六月三日)
       江戸時代を通じて、伊福寺跡は、八幡神社を含めて、八畝二十
       四歩が除地(年貢のかからない土地)となっていた。」
       とあります。
  住  所:奈良県大和高田市本郷町13−4
  電話番号:
  ひとこと:つまり、高田城の鎮守の神様だったのですね。
       高田城は、高田兵庫頭為貞(本姓当麻氏)が築いたもので、高田
       氏は、大和武士として応仁から戦国時代にかけてもっとも強盛
       だったんだそうです。
       が、織田信長の大和検地に従わず、城地を没収されちゃいます。
       そして、その後、筒井順慶の侵攻に合い、ついに、天正11年
       8月、高田一族は滅んでしまったんだそうです。

       あれれ?調べていると、高田城築城は、西暦1432年ですね。
       ということは、神社の方が古いです。

       八幡大神は武勲の神様ですから、ついつい城の鎮守と考えがち
       ですが、とすると、高田城の鎮守ではなく、伊福寺の鎮守神社
       ですか。

       しかし、高田城の築城の時に、祭神変更はあったかも知れませ
       ん。

       ついでですから、筒井順慶について見てみましょう。
       この武将は、「日和見主義」としてよく知られているのではな
       いでしょうか?

       本能寺の変の時、親しかった明智光秀より洞ヶ峠に出兵を促さ
       れるのですが、結局動かず日和見を決め込むんです。
       そこで、「洞ヶ峠をきめこむ」と言うと、「日和見して、旗色
       の良い方につく」という意味になったんですね。

       ただ、これもどこから、この人物を見るかで見方は変わってき
       ます。

       乱世の時代にあって、領民達にとって、自分達の主君が、勝利
       者側に立つか、敗者側に立つかは、大きな問題でしょう。
       筒井順慶が、悩みもせず、(自分だけの)義の為に明智光秀に
       ついていたら、大和高田の後の歴史は大きく変わったでしょう。

       そんなわけで、筒井順慶は、大和高田の人々には愛されている
       ようではあります。

       実際のところ、トップってのは、自分の義だけでは動けないし、
       かといって、義に反することをすると、トップが責められるし、
       辛いところですね。

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