祭 神:彦八井耳命 菅原道真公 若宮大神 説 明:栞を転記します。 「御由緒 河内の国は上代河内湾から河内湖へと地形が変化し、そこへ北の河 (淀川)が注いでおり、その分流のひとつである現在の古川は流れの 定まらぬ大変な暴れ川でありました。 五世紀中頃、時の仁徳天皇より、当時の最先端の渡来者の土木技術 を活用し、北の河の洪水から集落を守るため日本最古の堤防『茨田 の堤』が築堤されました。 築堤の中心的な役割を担った茨田氏の茨田連杉子が祖先に祈り、ヒ サゴを二つ川に投げ入れ難工事を克服したという故事が日本書紀に 記されているように、大国家事業として行われました。 茨田堤の完成によって河内低湿地帯にも農耕文化が発達し国家の経 済的基盤が確立され、国家発展へとつながりました。現在の寝屋川 市大間より大阪市内にかけて築かれた堤も今は当地のみにその姿を 残しています。 その茨田堤の中央に、茨田氏の祖である『彦八井耳命(神武天皇の 第一皇子)』を奉祀したのが神社の起源であるといわれています。 平安時代中期に編纂された『延喜式神名帳』の茨田郡(北河内の一 部)五座の第一座に列せられる門真市唯一の延喜式内社です。鳥居 の前には河内と大和を結ぶ『行基道』が通じており、古来から祈願 成就の神として篤い信仰を集めています。」 住 所:大阪府門真市宮野町8−34 電話番号:072−884−5188 ひとこと:日本書紀に、茨田連杉子が、ひさごを河に投げ入れることによって、 難工事を云々とある、と、栞にはかかれていますね。 それじゃ、日本書紀の内容を、見てみましょうか? 「北の河の塵芥を防ぐために、茨田の堤を築いた。 このとき築いてもまた壊れ、防ぎにくい所が二箇所あった。天皇が 夢をみられ、神が現れて教えていわれるのに、『武蔵の人強頸と河 内の人茨田連杉子の二人を、河伯(かわのかみ)に奉ればきっと防 ぐことができるだろう』といわれた。それで二人を捜し求めて得ら れた。そこで河伯に人身御供とした。強頸は嘆き悲しんで水に入れ られた。その堤は完成した。杉子だけは丸いヒサゴ二個をとって防 ぎにくい河に臨み、その中に投げ入れて神意を伺う占いをして『河 伯が祟るので、私が生贄にされることになった。自分を必ず得たい のなら、このヒサゴを沈めて浮かばないようにせよ、そうすれば自 分も本当の神意と知って水の中に入りましょう。もしヒサゴを沈め られないのなら、偽りの神と思うから、無駄にわが身を滅ぼすこと はない』といった。つむじ風が俄かに起こって、ヒサゴを水中に引 きこもうとしたが、ヒサゴは波の上にころがるばかりで沈まなかっ た。速い流れの水に浮き踊りしながら遠くへ流れ去った。杉子は死 ななかったが。その堤は完成した。これは杉子の才智でその身が助 かったのである。時の人はその二箇所を名付けて、それぞれ強頸の 断間、過ぎ子の断間といった。」 なんか話が違うやん。 この話に疑問を持ちませんか? じゃあ、この「河神」はニセモノだったのか? ということは、天皇に、「生贄を出せ」と告げた神もニセモノなん じゃないのか? そんないい加減な夢告に当時の人は振り回されてたのか? いや、振り回されていたからこそ、強頸は泣く泣く人身御供となり、 夢告などに振り回されることに疑問を感じていたからこそ、杉子は 抵抗をしたのでしょうね。 それにしても、なんだか腑に落ちない。 だいたい、夢のお告げというのは、崇神天皇の十八番で、飢饉があ れば、夢のお告げ、疫病が流行れば、夢のお告げ、と、夢のお告げ に頼り任せっきり、という印象があります。 ただし。 崇神天皇へ下った夢のお告げは、「私の祟りなんだから、私をお祀 りしなさい。そしたら、疫病は治まるよ」というような内容ばかり。 が、このお話では、「河伯を祀れ」ではなく、「河伯に生贄を出せ」 なのですね。 なんだか、「神」の性格がかなり変わってるように感じます。 いや・・・。 「神のお告げ」の利用方法(?)が変ったんじゃないか、ってのが、 正直な感想です。 崇神天皇は、純粋に、国を治めるために、どうすればいいか、神に 尋ねたんじゃないでしょうか? 仁徳天皇は、自分に都合の悪い人間を処刑する口実に、「神のお告 げ」を利用しただけなんじゃないか・・・なぁんてね。 もし、この想像が正しいならば、強頸と、茨田連杉子は、天皇家 (もしくは有力者)にとって邪魔者だったということになります。 なぜでしょうね? 何か秘密を握ってた? 天皇家を凌ぐ、何か絶大な力を持っていた。もしくは持ちつつあっ た? 茨田連・・・そんな氏族だったんでしょうか。