祭 神:菅原道真公 説 明:ご由緒書を転載します。 「太宰府天満宮は、菅原道真公(菅公)の御墓所の上に社殿を造営して、その 神霊を奉祀する神社で、学問の神、誠心の神として世の崇敬を集めている。 延喜三年(903)二月二十五日、菅公は大宰府の南館(榎社)において清 らかな御生涯をおえられた。その後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、 間もなくその牛が伏して動かなくなった。これは、菅公の御心によるもので あろうとその聖地に御遺骸を葬った。京より追従した、門弟味酒安行は延喜 五年ここに墓所と神殿を創建、次いで左大臣藤原仲平は勅を奉じて大宰府に 下って造営を進め、延喜十九年に御社殿を建立した。 醍醐天皇は大いに菅公の生前の忠誠を追想されて延長元年(923)にもと の官職に戻された。そして、一条天皇の正暦四年(993)には正一位左大 臣、さらに太政大臣を贈られ、天満大自在天神(天神さま)と崇められた。 その後、何度も勅使の下向があり、朝廷の特別な崇敬をうける「二十二社」 に準ぜられた。 明治四年(1871)、国幣小社に、同十五年には官幣小社、同二十八年に は官幣中社に社格を進められ、天神信仰の聖地として年間六五〇万余の参拝 があり、日本全国より尊崇を集めている。」 住 所:福岡県太宰府市宰府4-7-1 電話番号:092-33-8225 ひとこと:醍醐天皇は、ここからそう遠くない筥崎宮に、「敵国降伏」の宸筆を賜った ようです。 同じ時代、大宰府に菅公を派遣。 菅公は墳墓造営のエキスパートである土師氏の末裔ですから、土木に通じて いたことは間違いありません。 とすると、醍醐天皇の時代、この地を強固にし、敵国に備える必要があった ということでしょうか? そもそも菅公の大宰府派遣は左遷ではなく、製鉄に詳しい土師氏の人間を、 鉄の産地である北九州に遣わしたのであるという説を聞いたことがあります。 このすぐ近くには大宰府政庁跡がありますが、そりゃ〜広いんですよ。 九州から朝鮮半島、中国は近いですからね。 往古より、外国からの船の玄関口だったでしょう。 奈良より栄えてたに違いありません。 田舎に流されたのではなく、都会へ遣わされたのです。 それを「左遷」と考えるのは無理がありますよね、やっぱり。 なのに菅公死去の後、「祟り神」として恐れられている。 祟り神とされるからには、恨まれる覚えがあったのでしょう。 とすればこの時代、何があったのか……。 もう一つ気になるのは、菅公の亡くなった場所が「榎社」になっていること。 その昔、タケミカヅチに領地を奪われるまで、春日野を支配していた春日の 主様もまた、現在の春日大社摂社・榎社に祀られています。 「榎」にはなんのイメージがあるのか……。 榎社の案内板には、 「菅原道真公は、大宰府に左遷されてから逝去sれるまでこの地で謫居された。 毎年九月、菅公の御神霊はここに神幸され、一夜過ごされて翌日、天満宮本 殿に還御される。 榎社は、菅公を日夜お世話された浄妙尼を祀る社である」 と、ありました。