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萩原神社

hagiwaratenjin




  祭  神:天穂日命 菅原道真公
  説  明:ご由緒を転載します。
      「鎮座地の概要
       当地は南東部の山々より発する天野川の流域に有り、六世紀末頃造られた狭山池
       により西除川の流水を利用し稲作が古代から行われ、附近には古墳時代の窯跡や
       奈良時代の住居跡などの遺跡も多い。
       尚、日本書紀の大化五年の条に出てくる古道の『茅渟道』は、河内国南部を東西
       に通り、大和と和泉を結ぶ道であるが、竹内峠より富田林喜志を通り平尾、黒山
       から日置荘、関茶屋を経て和泉に至る道と推定されており、一部に条理制の伺え
       る地割が、最近まで日置荘北町付近にあったが、その東西線が重要な役割を果た
       した茅渟道の一部とも考えられる。
       また日置の地名より古代の太陽祭祀に関係する『日置部』の支配した土地であっ
       たとも云われているが、これを受け継ぐかのように時代は全く下がるものの、日
       置西村に日祠宮(ひまつりのみや)があったことが江戸後期の『河内名所図会』
       に記されている。これは現在古老が『バンジサン』と言っている『三十番神』の
       ことであるので、いつの頃か太陽信仰と習合したものと思われる。
       鎮座地の日置荘は平安末期、承安四年(1174)の吉記と称す日記に、興福寺
       領 河内国山郷内日置庄と見えるが、この記録に日置庄が河内国司より造内裏役
       を課せられたがその税を納めなかったのは、当地の住人が、蔵人所の灯楼の作手
       のために、課税を免除されているからであると云う内容が記されている。
       又、文永三年(1266)のある文書に、『右方鋳物師者、日置、金田、長曽禰
       此三ヶ所也』この書から丹南郡日置荘が、鋳物師の住まいする土地であったこと
       が解されるし、最近では付近の発掘調査で鋳物に関する遺物が発見されている。
       又、近世物であるが各地に『河内国云々』と刻された鋳物製品が文化財として遺
       っているし、他にも地方に散在する古文書等で、当地が鋳物に関したことが記さ
       れている。
       近世の日置庄を称す領域は、天保年間の西村明細帳に、七ヶ村と記してあるが、
       同年代の絵図(菅生神社蔵)及び各地の古記より察すると、現在の日置荘並びに
       丈六、高松、草尾新田、大保、更に狭山付近まで広範囲に及んでいたことがあっ
       たようである。
       尚、日置荘は荘園の名残の地名であるが、荘園は中古以来各地に発生してこの付
       近にも野田荘、丹比荘、毛受荘、陶器荘などがあり、公領のほかは、ほぼ公家、
       寺社領などの荘園となっていたが、鎌倉末期から、武士の発生により、大豪や有
       力名主の力の増大により南北朝には各地の荘園は崩壊した。
       しかし、当日置荘は南北朝の混乱の中、比較的遅く室町期まで荘園として続いて
       いたようでさり、その後この土地は興福寺の手を離れ、幕府御領所となり、よう
       やく近世に近いような村落の傾城が始まり、村まつりも行われるようになったの
       であろう。
       沿革
       当社の創建年代は不詳であるが、社記によれば『天徳三年(960)、勅宣によ
       り菅原道真公を日置高庭の境内末社に祀る。南北朝他戦国期に度々戦火にあい後、
       造営して菅原大神を相殿に祀る』とあり、境内から出土する古墳時代の無数の須
       恵器破片及び、時代が下がるが古瓦等から推察すれば、千百年以上昔にさかのぼ
       られる。
       特に軒丸瓦、軒平瓦の出土品は平安後期の遺物であるので、伝記の如く十二世紀
       頃の当神社は、当然のこと神仏習合し平安期以降盛んになった御霊信仰(疫神、
       死者の怨霊を鎮めるための信仰)の天満大自在天神をまつり、六院(坊)の塔頭
       を在し萩原山の山号を有した『萩原寺』が神仏の聖地としての信仰集めていたこ
       とをうかがうことができる。また鎮座地の『原寺』の地名は『萩原寺』の『萩』
       が省略されたものと云う説があるが、この説を裏打ちするように前か後の一字を
       いつの頃か省略された例は各地によく見られる。
      『萩原』の名称の起源は、萩が生い茂っていた野原であったからと云われるが、万
       葉集に詠まれている植物の中では『はぎ』が最も多く百三十首あり、第二は梅の
       百十首余であるので、当時の生活によく密着した草花である。
       ハギの字は(芽)または(芽子)と書かれているが、秋の草の総称であろう。
       尚この辺りの大昔は現在よりは若干の起伏はあったが、地名のような野原であり、
       古墳時代にはすでに生活の基盤があったことが付近の遺跡発掘などにより証明さ
       れているので、かなり早くから開墾もされていたようである。
       尚、伝記には南北朝の正平年間(1346)兵火にあい(幾度かの火災にあった
       ことは本殿南東部のおびただしい焼土、焼瓦埋没の跡が顕著である)その後、大
       聖寺、妙覚寺を原寺村に、観音院は西村に、正福寺は北村に、釈伽院は丈六村に、
       地蔵院を高松村に遷しとあり、河内誌や当神社所蔵の元禄三年の寺社改帳等に記
       される『大聖寺』が原寺村の南東部にあって『萩原山』の法灯を受け継ぎ、近世
       に至りしが明治維新に廃寺となった。最近この『大聖寺跡』の発掘調査も行われ
       たが、出土した忠誠から近世にわたる瓦類は大聖寺と共に萩原寺の歴史を物語り、
       一部に当境内出土とまったく同じ瓦も含まれている。一方寺院を遷したその後、
       おそらく室町偉大以降は、古来より祀られていた出雲氏族の祖神である天穂日命
       と菅原道真公を祭祀した萩原天満宮として広く崇敬されてきたのであろう。
           (さすがに中略)
       その後明治末期の神社合祀令に従って近在の神社十一社を合祀し、いわゆる『総
       社』として広大な氏子区域を領有して多くの氏子崇敬者の心の拠り所として信仰
       されている。」
  住  所:大阪府堺市日置荘原寺町75番地
  電話番号:0722−85−0295
  ひとこと:つまり、この神社の創建の時代は不明なるも、この地としてはかなり古くから開
       ていた、ということですね。

       この長い文章の中で、特に目を引くのは、

       ここが
      「古代の太陽祭祀に関係する『日置部』の支配した土地であった」
       と云われていること。

       ここに、
      「日祠宮(ひまつりのみや)があったことが江戸後期の『河内名所図会』に記され
       ている。」
       ということ。

       そして、
      「これは現在古老が『バンジサン』と言っている『三十番神』のことである」
       ということでしょう。

       太陽信仰のない国なんてあるのでしょうか?

       夜を照らす月、夜に方向を指し示す星。
       それらの「光」は人々に尊ばれたには違いありませんが、
       植物を育て、活動の光を与え、温かみを振りまく太陽は、それら以上に尊い存在
       に映ったでしょう。

       ということで、太陽祭祀が盛んであったということを、
      「太陽祭祀に関係する」といわれる「日置部」に支配されていたことの証明とする
       よりも、
      「ここは太陽祭祀が盛んであった」
       ということから、なぜ、ここに太陽祭祀が?
       という疑問を呈してみたいと思います。はい。

       そして、呈してみて、それで終わりだったりします、なはは。
       だってさ〜、私、地理は大の苦手なんだってば。
       誰か、考えてみてください。

       ただ、「日置部」の祭祀についての詳細を、私は知りませんが、いわゆる「日置
       神話」は、何かの理由で、その日中に作業を終わらせたかった人物が、呪文など
       によって、日没を遅らせた・・・という神話です。
       そして、その日没を遅らせた人物は、大概の場合、「神をも恐れぬ所業を働いた」
       ということで、病気になったり貧しくなったりしてしまいます。
       ですから、日置部発祥の地だとしたら、日没を止めるための呪術を行うに相応しい
       場所であった、ということになるでしょう。

       萩原天神は、近くに高い山がありませんでした・・・と記憶してます・・・。
       近くに山がなければ、太陽というものは、はるか遠くに沈むように見えます。

       例えば、海の上では、日没は水平線の向こうに見えるでしょう?
       水平線の向こうですよ???

       そばに山があれば、「山の向こう」に太陽が沈むと見えますから、「近くに沈んで
       るなぁ」と感じるでしょう。

       そういうことを考えると、日没を遅らせる儀式は、この地に相応しいような気も・
       します。

       しかし、山がないということは、太陽がどこに沈んだか、という目印がないという
       ことでもあります。

       つまり、太陽が沈む位置によって、季節を知るということには不向き。

       そういうことを考えると、ここを「太陽祭祀の場」にしようと思えばですね。
       ストーンヘンジもかくやと思える、巨大太陽の方向測定装置があった!!!
       ・・・かも(笑)

       すいません。ヨタ話しが長くなってしまいました。

       気になったのは、「三十番神」でした。
       この名前を聞いたことはありますか?
       私は知りませんでした。
       てことで、これを今回の課題としましょう。

      「三十番目の神様じゃないの?」
       えぇ、私もそうかと思いました。

       が・・・。

       まぁ、柏書房刊「日本の神様読み解き事典」から、「三十番神(さんじゅうばんし
       ん)」を引用してみましょう。

      「一口にいえば、一ヶ月三十日の間(陰暦は月齢で月を割るため、一ヶ月を大の月三
       十日、小の月は二十九日としている)、毎月晩がわりに、国家、人民などを守護す
       ると信じられる善神のことを、三十番神という。」

      「さて、この三十番神の種類は多く、次の10種類に及ぶ。
       一に天地擁護の三十番神。
       二に内侍所の三十番神。
       三に王城守護の三十番神。
       四に吾が国守護の三十番神。
       五に禁闕(宮廷)守護の三十番神。
       六に法華守護の三十番神。
       七に如法守護の三十番神。
       八に法華経守護の三十番神。
       九に仁王経守護の三十番神。
       十に如法経守護の三十番神。」

       えぇっと、「三十番」が、10種類??

       ・・・まぁ、見てみると、どうも仏教系の神様であるようですね。

       んで、その神様が、この地では、「日祠宮」である、と。

       なるほど・・・。
       って、さっぱりわかりません(笑)

      「読み解き〜」によると、三十番神の中で、禁闕(宮廷)守護の三十番神が一番オー
       ソドックスなようですから、宮廷を守るのは、太陽、という感覚がこの地にあった
       ということは、もしかしたら、言えるかもしれません。

       そして、だとしたら、その当時、朝廷は、「絶対的な権力」を持っていたでしょう。

       なにしろ「太陽」なんですから。

       太陽・月・星。
       どの光も、人は憧れ、善きものと見ます。

       しかし、
      「君は僕の太陽だ!」
       と言われるのと、
      「君は月の天女のようだ」
       と賞賛されるのと、
      「君は星のような人だ」
       と愛をささやかれるのとでは、
       びっみょ〜〜〜〜〜に、というより、かな〜りニュアンスが違いますよね。

       太陽に喩えられる女性は、まぁ、多分、かなりの確率で、大人しい人柄ではないの
       ではないか、と。
       反対に、月に喩えられる女性が自己主張の強い、リーダーシップを取るような人物
       である可能性はかなり低いんではないでしょうか。
       星に喩えられる女性は、まぁ、多分、美女なのかな?と。
       もしくはミステリアスで色っぺ〜とか。
       人柄を「星」に喩えられちゃうとなぁ。
      「すんませんでしたなぁ、ありふれててっ(-"-)」
       と、膨れてしまいそうになったり(笑)

       まあ、そんなわけで、「絶対権力者」のイメージは、間違いなく「太陽」でしょう。
       月は、それを影で支えるもの。
       星は、その他の微細な実力者。

       というわけですから、「宮廷を守る神」と、太陽をいっしょくたにする時代、とは、
       宮廷に絶対権力があったんだろうな、そういう結論でございます。

       ・・・しかし、「太陽・月・星」を女性に喩えるた場合、上記のようですが、それ
       が、男性だとどうでしょうね?

      「あなたは私の太陽よ」
      「私の月の君」
      「私の星の王子様はぁと」

       ・・・なぜだろう?
       さぶいぼが立ってきた・・・(^^ゞ

       多分、下手してまかり間違ったら、自分が、旦那にこのようなセリフを言う立場に
       なる可能性があるから、つまり自分が当事者になる可能性があるから、ここまで、
       こっ恥ずかしいのですね。

       愛のささやきってぇのは、まぁ、他人事だからこそ笑え・・・じゃなくて、綺麗な
       のかも(笑)    

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