祭 神:豊鋤入姫命 説 明:境内にあった案内板を転載します。 「延長五年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に記載されている式内 社で、本殿も江戸時代に春日大社から移建されたものです。結崎内の五垣内 (市場・中村・井戸・辻・出屋敷)により祀られています。 毎年十月第四土日に秋祭(土曜宵宮、日曜本祭)がおこなわれ、氏子が輪版 でつとめるトウヤ(当屋、頭屋)の行事は当屋相撲など格調高く、大和祭礼 の中でも注目すべきものです。 川西町教育委員会」 「川西町 町・村の歴史 大字 結崎 大字 結崎の概要 結崎は寺川の右岸にあり、中村・市場・辻・井戸・出屋敷の五つの垣内から なっている。 中世結崎郷は、結崎大明神(現糸井神社)を鎮守として、存在していた。 1600年代に入ると『結崎之枝郷』として結崎市場村・中村・辻村・井戸村・ 梅戸村の五村となった。 1700年代の和州御領郷鑑の中では『中村・市場村・辻村・井戸村四か村出屋 敷与申付』と記されている。その後、明治10年に四か村と出屋敷方が合併し、 結崎村となった。 鎮守であった糸井神社は、延喜式内社。糸井神社の祭神は、『大和志料』の 中に『本殿豊鍬入姫命、同二ノ宮猿田彦命、同三ノ宮綾羽明神、同四ノ宮呉 羽明神』と記されており、社殿中にも綾羽・呉羽の祭神とあることから、機 織の技術集団の神と推察される。本殿は春日大社の古殿を移築したと伝えら れ、室町期の春日曼荼羅を所蔵し、興福寺や春日大社との関連も深かったと 考えらえている。 拝殿内には、多数の絵馬がある。中でも江戸時代に始まった、民衆が伊勢へ 群参したおかげ参りに発する『おかげ踊り絵馬(慶応四年(1868)柵』と、 江戸時代奈良盆地を中心に盛んであった雨乞いの踊りの形をあらわした『太 鼓踊り絵馬(天保十三年(1842)作』があり、何れも県の文化財として指定 されている。 この糸井神社から南東へ200メートルほど行くと寺川河川敷に、面塚があ る。 面塚は能楽観世流発祥の地として知られている。この面塚に関し、次のよう な伝説がある。『室町時代のある日のこと、一天俄かにかきくもり空中から 異様な怪音と共に寺川(謡曲でいう糸井川)のほとりに何か落下した。この 落下物は、一個の翁の能面と一束の葱であった。村人は、能面をその場に葬 り(一説にここ糸井神社で保存、その後春日大社へ奉納されたというが、現 在は不明)、葱はその地に植えたところ、みごとに生育し、戦前まで『結崎 ネブカ』として名物になった。何れにしても史実と幻想をおりまぜて伝えら れたものといえる。 大和磯城ライオンズクラブ」 「面塚の由来 能楽は足利義満ら室町将軍家の庇護を受けて観阿弥・世阿弥父子が猿楽を幽 玄加齢な芸道にまで高めたものです。『観世小次郎画像賛』『観世家譜』等 によれば、伊賀国小波多に座を立てた観阿弥がこの結崎の地に移住し、ここ で世阿弥が生まれたといい、『宝生座系図』では観阿弥が観世家を継ぎ、結 崎の地に知行地を得たといわれています。 いずれにしても当地には古くから『翁の面と葱が天から降り、その面を埋め たのがこの塚である』という伝承がありました。そのため昭和十一年(1936) 十二月十四日、当時の村役場が奔走して観世流第二十四代宗家観世左近(元 滋)氏の揮毫による『観世発祥之地』『面塚』二つの標石を建立しました。 現在の面塚の地は、寺川の改修により二回移転しており、後に整備された面 塚記念公園とともに、住民憩いの場としても親しまれています。」 「面塚 観世発祥の地 いつの世の頃にか、この地に天から『翁の面とねぎ種』が降ってきたとの伝 承があり『面塚』と称した。伊賀の国小波多に座を創った観阿弥、世阿弥父 子がこの地に移り、結崎座と称して芸道に精進した本拠の地の跡である。観 阿弥父子はここより南部春日大社、興福寺の能に参勤し、その後京都今熊野 の能に於いて室町幕府三代将軍足利義満に見出されその知遇を得て益々円熟 の芸境に到達していくのである。 大和にはこの結崎座のほかに、円満井『金春』、外山『宝生』、坂戸『金剛』 の三座があり、いずれもが南都の能に参勤していた。これらを大和猿楽の四 座と称する。 もっとも古来面塚伝承の地はここより北へ約10メートルの所にあって、昭和 11年5月観世流二十四世宗家観世左近師の筆跡により『面塚』・『観世発祥 の地』の二碑を建立されたが、その後昭和30年寺川の改修工事のため、現在 の地に移された。」 住 所:奈良県磯城郡川西町結崎68 電話番号: ひとこと:翁の面が降った場所というのが非常に興味深いでしょ? しかも一緒に降ったのが葱(^^ゞ な〜んてロマンのない……。 ネギはネギでも「禰宜」ならわかる気もしますが。 ただ、糸井神社は延喜式内社ですから、建立は927年よりは昔でしょう。 観阿弥の生年は1333年と伝わりますから、神社が先です。 翁面の天降りはいつから伝わったのか、ひどく気にかかります。 もし、面降りが先なら、能以前の猿楽に使われるものだったでしょう。 としたらその「楽」はなんのためのものでしょうか? この神社のご祭神は織姫です。 織姫と言えば、蛇の生贄となるもの……と言ったら短絡的すぎますが、神迎 えの巫女だった可能性は十分あるか、と。 ではでは、なんの神を迎えるのでしょう? そりゃあ、あなた、翁に擬される神だと思うわけですよ。 翁面が天から降ったといのはそういうことじゃないでしょうか? でも、機織りの乙女が川のほとりで神迎えをするのは毎年のこと。 それが、室町時代のある日、忽然と翁面が……としたのは、何か意味がある と思えます。 その年に何が起きたのでしょう? なんのために、神降ろしをしたのでしょう? ん〜、気になりますねぇ。 そしてこの神社もまた、「春日」「翁」と深いかかわりを持つことに注目し ないわけにはいきません。 能楽が発展した地とされる奈良坂の奈良豆比古神社。 この地は、ハンセン病患者を収容した北山十八間戸があり、同時に春日王の 病を癒すために翁舞が始まったとされます。 「かすが」が「かさ」に通じることと無関係ではないと、やはり思いますが。 この神社に、ハンセン病に関する伝承があるかどうかは今のところわかりま せん。