祭 神:大己貴神 少彦名神 下照姫神 説 明:境内にあった案内板を転載します。 「御由緒のあらまし 当神社は第十三代成務天皇甲申歳(西暦144年)の創祀と伝えられ、延喜 の制では名神大社に列し、播磨国の一の宮で、旧国幣中社の御社格でありま す。 御祭神は大己貴神と申し(又の御名を大名持御魂神・大国主神とも申し、又 伊和大神とも申し上げる)。 国土を開発し、産業を勤めて生活の道を開き、或は医薬の法を定めて治病の 術を教えるなどして専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。 大神が播磨国に特別の御恩恵を垂れ給い、播磨国中を御巡歴になって国造り の事業をされたことは播磨風土記に記載の通りであります。 その御神徳を仰いで、播磨国開発の祖神、総氏神様と崇め、古来、農業・工 業・商業等の産業の神、縁結びの神、拭くの紙、病気平癒の神として、又御 社地が因幡街道(現在の国土29号線)のほぼ中央にあたる交通の要衝にあ るため、旅行者の守護神、交通安全の神として、播磨国はもとより、遠近の 人々の崇敬篤き神様であります。 約55000平方メートル(約17000坪)に及ぶ境内には、杉、桧など の大樹が繁茂し、自ら襟を正す神々しさを保っております。 御社殿は一の宮の名にふさわしい入母屋(反射で読解不能ですすいません) なお創始の伝承を今に伝える鶴石は本殿のうしろにあります。」 「鶴石 昔、大神、伊和恒郷に託宣あり。驚きて見るに一夜のうちに杉桧生い茂りて 聖地を成し、空に鶴群れ舞い、その中大き二羽北向きて眠り居たり。その跡 に神殿を造り、奉斎せり。これ当社の起源なりと伝う。鶴の居た石を鶴石ま たは降臨石という。」 住 所:兵庫県宍粟市一宮町須行名407 電話番号:0790−72−0075 ひとこと:鶴石とは直径1.5メートルあるかなしかの石で、静かに苔むした落ち着い てつるりとしたものでした。 しかし、面白いのは、二羽が二羽とも北向いて眠っていたということ。 この神社の北になにがあるのか・・・と、地図を見ると、ハチ北高原で有名 な鉢伏山が見えます。 そのず〜っと北には、但馬御火浦、その少し西に鬼門崎なんて地名がありま すが・・・う〜む、関係ないでしょうね。 ただ、この付近には、美伊毘賣命と美伊毘彦命を御祭神とする式内社・美伊 神社も鎮座しますから、無関係ではない可能性も、いくらかはあるかと思い ますが(笑) 夜比良神社のご由緒によれば、夜比良神社を「南方宮」、この伊和神社を 「北方宮」と呼ぶとのこと。 そしてその理由は、両社のご祭神が同じであることと、古代播磨において、 揖保川流域を拠点としていた豪族の北方の拠点と南方の拠点としての意味が 考えられる、と。 すると、この伊和神社は、この豪族の北限に近い場所に鎮座していることに なります。 北限において、まだ北側を睨んでいる鶴とは・・・。 一帯何があったんでしょうね? さて、播磨国風土記の宍禾の郡を開いてみましょう。 こうあります。 「宍禾と名付けるわけは、伊和大神が国を作り堅め了えられてから後、ここの (山)川・谷・峰を境界として定めるため、御巡幸なされたとき、大きな鹿が 自分の舌を出してくるのに矢田の村で遇れた。そこでみことのりして仰せら れた。『矢はその舌にある』と。だから宍禾(シシアハ)の郡とよび、村の 名を矢田の村とよぶ。」 宍禾の郡中、御方の里 伊和の村も見て見ましょう。 「伊和の村(もとの名は神酒(みわ)である。) (伊和)大神が酒をこの村で醸したもうた。だから神酒の村という。また於和 の村という。大神は国作りを終えてから後、『於和』と仰せられた。於和は 美岐(神酒(みき))と同じ意味である。」 とありまして、この地名が、お酒とかなり関連深い、神の酒と関連深いこと がわかります。 それを考えると、この神社の御由緒に、酒作りについての説明がないこと、 ご神徳の説明に、「酒作り」などがないことが不思議ですね。 非常に苦しいのですが・・・。 鶴・酒・揖保(粒)というキーワードに関連するのは、すべて「稲穂」では ないでしょうか。 揖保の地名は、「稲穂」「稲粒」にかかるという伝承があります。 また、鶴が稲穂を咥えて飛来したという伝承・・・山城国風土記逸文にある 「伊奈利の社」で、餅の的が変じたとする白い鳥もまた、鶴ではなかったでし ょうか。 そして、酒といえば、米を醸してできるものです。 播磨国風土記の中における伊和大神の妻(妹)、妻問いした女性は、ざっと 見ただけでも、穴師比売神、阿和加比売神、許乃波奈佐久夜比売命などなど。 艶福家ぶりが伺えるわけですが、それはそれだけ、彼の技術が・・・稲作り の技術が、播磨国全土で必要とされていたからではなかろうかなどと思った りします。 そして同時に、それほど女色に溺れた男神が、本来関連づけられていたはず の酒作りの事蹟を伝えられていないというのは、途中で何かあったのかもし れません。 無理からに考えようとすれば、播磨国風土記の託賀の郡賀眉の里荒田にこん な話しがあります。 「荒田とよぶわけは、この処においでになる神は名を道主日女命という。父親 がなくて児を生んだ。盟酒を醸そうとして田七町を耕作した。七日七夜のあ いだにその稲は成熟しおわったので、酒を醸してもろもろの神たちを集めて、 酒宴をし、その子を遣って酒を捧げさせ、そしてこれを神たちに奉らせた。 するとその子は、天目一命に向ってこれを奉った。そこで、天目一命がその 子の父であることがわかった。後になってその田は荒れてしまった。だから 荒田という」 荒田神社のある加美町は伊和神社のある一の宮から東北に40キロというと ころでしょうか。 鉄の神と稲穂の神が「酒」というキーワードで語られているところが、なん とはなしに気になってしまうのですが・・・。 また、飾磨の郡・伊和の里には、こんな話しがあります。 「右伊和部とよぶのは、しさわの郡の伊和君らの族人がやってきてここに住ん だ。だから伊和部とよぶ。 (中略) 昔大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常にたけだけしかった。そのため 父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。すなわち因達の神山ま で来て、その子を水汲みにやって、まだ帰ってこないうちに、すぐさま船を 出して逃げ去った。さて火明命は、水を汲んで帰ってきて、船が出て去って ゆくのを見て大いに恨み怒った。それで風波をまき起こしてその船に追い迫 った。父神の船は前に進むことができないで、ついに打ち壊された(後略)」 大汝命とは「おおなんじ」。 このご祭神である大己貴命と同一神でしょう。 火明命は、粒坐天照御魂神社のご祭神。 この二神が親子であるとなっているわけですが、親子の争いとしては、この 記述はなにやら激しすぎるとは思いませんか? 古代の争いを示しているのかもしれません。 播磨と河内の文化の違いは、どうにも頭を惑わされてしまうというか・・・。 なんだか、まったくまとまらず、ただ、この神社の伝承の奥深さに 「参りました!」 という気分なのでした。 尻切れトンボですいません(T_T)