祭 神:天武天皇 説 明:境内にあった案内板を転載します。 「吉野は古く、古事記・日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今 の吉野山を指していたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいました。 古事記・日本書紀に書かれていることが、そのまま歴史的事実とは言えません が、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文・弥生式の土器や、そのころの 生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。 記紀には『神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押し分けて 出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今天津神の御子が来られると聞いた ので、お迎えに参りました、と答えました。これが吉野の国栖の祖である』と いう記載があり、古い先住者の様子を伝えています。 又、記紀の応神天皇(今から焼く1600年前)の条に、天皇が吉野の宮(宮 滝)に来られたとき、国栖の人々が来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、 今に伝わる国栖奏の始まりとされています。 さらに、今から1300年ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が 起こりました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子は、ここ吉野 に兵を挙げ、天智天皇の皇子・大友皇子と対立しました。 戦は約一ヶ月で終り、大海人皇子が勝って、天武天皇となりました。 この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に見方して敵の目から皇子を かくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しま した。これを見た皇子はとても喜ばれて、国栖の翁よ、と呼ばれたので、この 舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月十四日に天武天皇 を祀る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。」 また、謡曲史跡保存会の案内板も転載します。 「謡曲『国栖』と国栖奏 謡曲『国栖』は、浄見原天皇が叛乱のために吉野の遷幸あそばされた時、老人 夫婦が根芹と国栖魚を供御し奉り(国栖魚の占方)、やがて追手の敵が襲って 来ると、天皇を船にお隠しして(洲股の渡)御難をお救い申し上げた。そして、 御慰めのために天女が現れて、楽を奏し(五節舞)、蔵王権現が現れて御味方 申し上げ、かくて世は太平になった、という曲である。 記紀・応神記には、天皇吉野行幸の時、国栖人が醸酒と土毛(根芹)とを献じ、 伽辞能舞(からのぶ)の歌舞を奏すとあり、是が国栖奏の始めである。 国栖奏は十二人の翁による典雅な舞楽で、国栖人は壬申の乱平定に功績があっ たとして、天武天皇(浄見原天皇)の殊遇を賜り、大嘗祭に奉奏する外、毎年 元旦には宮中に召されて歌舞を奏せしめられた。」 住 所:奈良県吉野郡吉野町南国栖1 電話番号: ひとこと:この神社に参拝したのは、吉野出身の方から、 「毎年、節分には、吉野・浄見原神社で翁の舞が奏上されるんですよ」 と教えていただいたことがきっかけでした。 実は、「翁の舞」というのがよくわからないのです。 「能」「翁」と聞くと、すぐに思い浮かぶのが、金春禅竹の「明宿集」です。 現代語訳がありませんので、なかなか理解しづらいのですが、 「日本思想大系24」所載の「明宿集」によれば、 「抑、翁ノ妙体、根元を尋タテマツレバ、天地開闢ノ初ヨリ出現シマシマシテ、 人王ノ今ニ至ルマデ、王位ヲ守り、国土ヲ利シ、人民ヲ助ケ給フ事、間断ナシ。 本地ヲ尋タテマツレバ、両部越遇ノ大日、或ハ超世ノ悲願阿弥陀如来、又ハ応 身尺加牟尼仏、法・報・応ノ三身、一得ニ満足シマシマス。一得ヲ三身に分チ 給フトコロ、スナワチ翁、式三番ト現ワル・・・」 とありまして、つまり、翁とは、天地が始まったときに出現し、天皇を守り、 国土と人民を助ける・・・つまり、創造神そのものではありませんか。 確かに、この後、「住吉大明神でもあり、諏訪明神とも、または、塩釜の神と も現れる」と続きますから、感覚的には、ヒンズー教のヴィシュヌが、いろい ろな姿で人間を助けたのと似ているのかもしれません。 それならば、天武天皇を助けたのも、まさしく、この「翁」の化身であったの だということかもしれません。 また、応神天皇がこの地を訪れたときも、翁はこの地に出現しています。 とすると、翁・・・創造の神に近い存在・・・は、ここ吉野に鎮座ましまして いたということでしょうか。 そう考えれば、ここ吉野こそ、天地開闢の舞台となった場所なのでしょうか。 応神天皇御幸の様子は、日本書紀に詳しく記されています。 「十九年冬十月一日、吉野宮へおいでになった。国樔人が醴酒を天皇に奉り、歌 を詠んでいうのに、 カシノフニ、ヨクスヲツクリ、ヨクスニ、カメルオホキミ、ウマラニ、 キコシモ チヲセ、マロガチ」 歌が終わると、半ば開いた口を、掌で叩いて仰いで笑った。いま国樔の人が土 地の産物を奉る日に、歌が終わって口を打ち笑うのは上古の遺風である。国樔 は人となりが純朴であり、常は山の木の実を取って食べている。またかえるを 煮て上等の食物としており、名づけて毛みという。その地は今日より東南で、 山を隔てて吉野川のほとりにいる。峯高く谷深く道は険しい。このため京に遠 くはないが、もとから訪れることが稀であった。けれどもこれ以降はしばしば やってきて、土地の物を奉った。産物は栗・茸・鮎のたぐいである」 ここでちょっと気になるのは、つまり国栖の人達は、稲作をしていなかったの だということが書かれているという点です。 日本は弥生文明の前に、縄文文明があります。 ですから、天地開闢の神が、縄文文明を引き継いでいるのは、不思議ではない かもしれませんね。 そして、「純朴であった」ということも。 私は、ここに、なんとなく、ホッとする嬉しいものを感じるのですが、いかが でしょうか。 そして、もう一つ。 「翁」が、天地創造の神なのだとしたら。 また、天皇や国民を助ける神なのだとしたら。 既に、天下を安泰にした天皇が。 「神」に「応」という名を持つ天皇が、翁を訪れた理由はなんだったのでしょう。 それまでは、この地に訪れることは稀であったとされる吉野から、この後は、 しばしば国栖の「翁」が京を訪れたと、そして、産物を運んできたというのは一 体どういう意味なんでしょうね。 巫女が神がかりになる時、どういったことがおきているのでしょう。 神は地にはいないでしょうから、まず巫女は天に神を迎えに行くのでは? そうしてから、地に神を下ろすのではないでしょうか。 それは、「応神天皇」が、吉野まで「翁」に会いに行き、その後、翁がしばし ば天皇のところへやってきた・・・という表現と、非情に近いものを感じるの ですが・・・いかがでしょうか。 まったく考え違いかもしれませんが、「応神天皇」という名。 そして、「翁」。 ここに、なんらかの符合があるように思えてなりません。