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諸羽神社

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  祭  神:天児屋根命 天太玉命 八幡宮 伊奘諾命 素盞鳴命 若宮八幡宮
  説  明:略記を転載します。
      「御由緒
       本社祭神は天児屋根命・天太玉命にして、上古此二柱の神禁裏御料山階郷柳
       山に降臨坐しまし揚柳大明神と申す。抑々此二柱の神は天孫降臨左右補翼の
       神たるが故に両羽大明神と奉称す。人皇五十六代清和天皇の御宇貞観四年禁
       裏御所より社殿を御造営称宜職を置かせられ、神勤せしめ給ひ両羽大明神と
       唱へ給ひ山の名も両羽山と称するに至る、中古後柏原天皇の御宇永正年間よ
       り天児屋根命、天太玉命の二座の中央へ八幡宮を又、左右の脇殿を設け、其
       の左に伊奘諾命を右に素盞鳴命、若宮八幡宮を配祀し、以上六柱とし、両羽
       の文字も諸羽と改称するに至る、往古禁裏より御造営の社殿は応仁の兵火で
       その後御再建の社殿も江戸時代中期明和年間の大火で焦土と化し建物及古記
       録宝物等悉皆焼失せり、明和五年氏子中より広く募財して三度造営今日に至
       れり、慶応二年二月社殿修繕の節禁裏より白銀二十枚下賜せられたり、伝説
       に云ふ、貞観帝の御代社殿御造営称宜職を置かせられ神勤せしめ給ひし節御
       供米用神田として田地を下し賜ふ、今神社有として山科区四ノ宮神田町に土
       地の現するは其一部ならん、推考するに是等の古記録は既に焼失して其の証
       するものなきも神田として下し賜ひし田地は今も四ノ宮神田町と称し現存す
       るより考ふるも其事実の確なる事も疑ふ余地なし、又何れの年代なるや不詳
       なるも神供米として禁中より壱石づつ明治三年まで御供進相成りたり、これ
       よりみて、皇室の御崇敬厚く御関係の深かりし事
       以上の事実に依りても証するに足らん。
       境内に末社二社あり天満宮・稲荷社を祀る。
       現在境内総坪数千七百余坪で、四ノ宮、安朱、竹鼻地区の氏神である。
       山城志大帖夫木集曰
       豆良志土手 諸羽乃山仁加久留共 我山彦耳成天答武
      (つらしとて もろはのやまにかくるとも われやまびこになりてこたへむ) 」
  住  所:京都府京都市山科区四ノ宮中在寺町19番地
  電話番号:075−581−0269
  ひとこと:由緒を拝見するに、この神社を、「四ノ宮」と呼んだ時期があったのでしょ
       うか。

       この神社の神職さんは、
      「由緒は由緒。歴史は歴史。別者として見なくてはいけない」

       と考えておられるようで、こんなお話を伺いました。

      「神が天から降臨するという考えは、仏教の影響で、本来、神の住む場所であ
       る常世は海の向こうにあった」

       と。

       日本書紀では、少彦名命は、粟の穂に飛ばされて常世の国へ行きます。

       そしてその後、大己貴神が一緒に国造りをした親友である少彦名命がいなく
       なったことを嘆いていると、海の向こうから光り輝く神が到来します。
       この神は、大己貴神の幸魂・奇魂であり、現在、大神神社に鎮座している、
       となっています。

       確かに、少彦名命が飛んで行った常世は海の向こうのようですし、、大己貴
       神の幸魂・奇魂の故郷も・・・多分常世・・・も、海の向こうにあるようで
       す。

       そして、常世が海の向こうにあると考えた、日本の古い人々は、海に親しん
       でいたのでしょう。

       さて、私がこの神社に参拝したのは、
       京都新聞社刊 福田晃著 「京の伝承を歩く」の内容について、友人から教
       えてもらったからでした。

       要約すると、この本には、こんなことが書いてあります。

      「水辺に祀られて、荒ぶる水神の性格を持つ宿神と呼ばれる神がいた」
      「宿神は宗教芸能者が慰撫することがよく行われていた」
      「明宿集によれば、猿楽の中心=翁=秦河勝=猿楽の祖神=宿神、である」

      「四宮」は、「シク」であり、「宿」である。

       そして、

       この神社のすぐ側に、四宮河原と呼ばれる河原があること。
       そこには、古くから、琵琶法師が集ったこと。
       そして、その河原には、「四宮大明神」と言う神が祀られて、琵琶琴元祖の
       神であるとされていること。

       などがその説明として挙げられていました。

       現在の四宮河原は、河というには、あまりにもささやかな、細々とした水流
       を抱えたこれまた小さな河原でありましたが、往時は、たくさんの琵琶法師
       で賑わっていたのでしょうね。

       ところで、福田氏は、「宿神は小さ子神として具現する」と書かれています。

       小さ子、水辺の神。

       この二つのキーワードから、少彦名命を連想するのは、無理のないことでは
       ないでしょうか。

       そう。海の彼方、常世に飛んでいったとされる、親神の手のひらから零れた
       とされる、少彦名命です。

       少彦名命は国を作り、海の向こうに飛ばされました。
       その代り・・・生まれ変わり・・・の神も、海からやってきました。
       その神は、「幸魂・奇魂」であります。

       つまり、海からやってくる神は、良い神だと考えられます。

       しかし、同じく水辺の小さ神である、宿神は、「荒ぶる神」と言うのです。

       宿神というのは、論じるのが難しい神であると思います。
       なぜなら、それは、「シュクの者」と呼ばれて、人並みの扱いを受けなかっ
       た、芸能の民の歴史に触れなければ、本質が見えてこないであろう神である
       からです。

       ですから、さらっとしか述べませんが、私はこう思います。

       宿神も、芸能の民も、定住の民にとっては、両極端な存在であった。

       勿論、人間誰だってそうでしょう。
       絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない。
       誰かにとって、良い人でも、誰かにとっては悪い人であることもある。

       何もかも流動的なのです。

       宿神は、福をもたらす神であると同時に、祟ると怖い神でもあった。
       芸能の民は、新しい文化や娯楽を運んでくれると同時に、定住の地をもたな
       い、得体の知れない人々でもあった。

       そして、また、私はこうも思います。

       少彦名神がこの地を去って、光り輝く存在として再臨したように、彼らもま
       た、去った後は、もっと素晴らしい存在となって戻ってくると信じられてい
       たのではないか、と。

       人の心は複雑です。

       憧れが嫉妬と変じることもあるでしょう。
       可愛さ余って憎さ百倍、という言葉もあります。

       反対に、「敵の敵は味方」などと言われるように、状況によって、敵だった
       人物が味方になることもあるのです。

       畏れられたとされる宿神も、ただ、恐ろしいだけの神ではなかったのでしょ
       う。

       その神の斎祀られた姿を、私は、この目で見てみたいものだ、と思うのです。

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