祭 神:菅原道眞 説 明:案内板を転載します。 「社伝によると、天満宮鎮座の近傍は、往古は海洋であったが、社境内の付近は土地が高く、 海士人の住地になっていた。 延喜元年、菅公が大宰府へ西下する途中、乗船は児島の内海に航路をとり、この地の貝殻塚 に船を着けて急速された。 そのとき海士の妻が難産で苦しんでいるのを知り、菅公は早速安産の歌を詠んで与えたとこ ろ、やすやすと子供が生まれた。 その霊顕に驚喜した海士人らが、菅公の腰を掛けた石の上に瓦社を置いて祀ったのが、天満 宮のはじまりであると伝えられている。 昔から『子育天神』として、広く知られ、天神社と称したが、寛文三年に現在の天満宮に改 称した。 本殿、拝殿、幣殿、神供所などの社殿を揃えていたが、岡山市が空襲を受けたとき、直撃弾 が落下、全焼の難に遭った。しかし戦後早く社殿を再建。ほとんど旧観に復している。 一、宝物 肖像 天神 一体 狛犬 一対 詩歌 一綴 一、境内 腰掛石 一箇 一、御守 学業成就御守 一〇〇体 安産御守 一、〇〇〇体 一、氏子戸数 五〇〇戸 一、参拝者数 約二、〇〇〇人」 住 所:岡山県岡山市北区十日市東町2−28 電話番号: ひとこと:個人的に、菅原道真が大宰府に「左遷」されたということに、懐疑的です。 大宰府跡に行けば、そこがどれほど広大かわかるでしょうし、近辺の寺院に伝わるガンダーラ 仏のきらびやかさを見れば、往古の大宰府がどれほど栄えていたか想像がつきます。 多分その繁栄ぶりは、都以上だったのではないのかなぁ……。 そこに異動することを「左遷」というでしょうか? また、余呉湖の伝説では、菅原道真の両親は、中臣のイカツと天女だということになっていま す。中臣イカツは、藤原氏の始祖である建速産霊神から数えて15代目の人物。 応神天皇と同じ、15代目ですね……ってこれは関係ないかな? とにかく、藤原氏の子どもであるとされているんです。 となると、藤原時平は本当に、菅原道真を邪魔だと思っていたのだろうかという気がしてきま す。 確かに、都から離れた大宰府への異動は、いろいろな危険もあったかもしれませんし、不本意 なところもあったかもしれません。 でも……と。 そして私は、藤原氏の二代目、不比等がやたらと海女に関係していることが気になっていまし た。 讃岐は志度寺の伝説では、唐に嫁いだ鎌足の娘から贈られてきた珠が、竜神に盗まれるんです。 そこで不比等は、淡海の名で讃岐を訪れ、珠の在り処を探ります。 この地で彼が恋に落ちたのは、海女の玉藻です。 珠の話を聞いた玉藻は、竜神の居場所を突き止め、珠を取り戻します。 しかし竜神の追跡は激しく、珠を手に泳いでいたのでは、追いつかれてしまいそうになりまし た。 そこで玉藻はどうしたか。 乳房を切り裂き、そこに珠をしまい、陸まで泳ぎ着いたのでした。 彼女が上陸したのが真珠島。息絶えた彼女はそこで弔われ、志度寺に葬られたのでした。 女性なら、「珠をしまう場所」は、他にあるのに、わざわざ乳房を切り裂くのは、何か意味が あるのだろうと思われます。 そして不比等と海女といえば、髪長姫の物語も有名です。 八幡様の申し子として生まれた宮は、大きくなっても髪が一本も生えませんでした。 彼女が10歳くらいになったとき、不思議に海が荒れ、漁ができなくなります。宮の母は海女で、 なんとか海を鎮めようと海に潜ったところ、金色に輝くものを見つけます。 深い場所にあるので、命からがらやっと拾い上げると、それは小さなかんのんさまでした。 観音様を祀ったところ、宮の頭に美しい毛が生え、その噂は都に届きます。 その噂を確かめにきた藤原不比等は、彼女を養女とし、文武天皇の妃にしました。 そうして生まれたのが、のちの聖武天皇です。 藤原氏と菅原氏の線、そして海女ということで、気になってこの神社を訪れました。 何かあると思います?