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鳥取神社

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  祭  神:天忍穂耳命(元山中神社祭神)
       角凝命(元波太神社祭神)
       天照大神(元神明神社祭神)
       素戔嗚命(元八坂神社祭神)
       菅原道眞公(元菅原神社祭神)
       五十瓊敷入彦命(元玉田神社祭神)
       品陀和気命(元八幡神社祭神)
       祭神不詳(元乳守神社祭神)
  説  明:ご由緒を転載します。
      「当神社は、明治四十一年三月二十六日に合併し、創立の許可は明治四十二年五月
       十日にて一社を創建。のちの五月二十八日に鳥取中地区の村社八幡神社を合祀す
       る。
       この地はもと波太神社の神主田島家の屋敷跡で当時田圃となっていたのを買入れ
       社殿、拝殿、幣殿、社務所等が造営された。其の外、境内神社として五社の石祠
       も移設せられた。
       当神社は、明治末期から大正初期にかけて推進された政府・地方官主導の神社合
       併政策で創立されることとなる。
       (中略)
       馬目王子社は、自然田から山中に通ずる道路側の字王子原に小祠があり、俗に山
       中の足神さんとして信仰があり、大きな草鞋が社前に供えられていた。熊野権現
       の分身である九十九王子のひとつで後鳥羽上皇の熊野御幸記(藤原定家筆)に載
       せられている古社である。
       また八王子天神社は観音を以って本地とし、もと紀伊国岡崎郷にありましたが、
       澤四郎善真なる者、承暦八年(1084年)八月八日故あって山中村に転居する
       に際し神像及び観音像に離れることを嘆き窃にこれを袖に隠し来て小社を建て之
       を安置し、来た山中村には氏神がなかったので村民に村の氏神に勧請せんことを
       願い出て永長元年(1096年)十一月分霊して山中神社を建て、その分社に対
       して元社を元社八王子と呼び、観音堂と共に善真の裔之に奉侍し併せてその分霊
       の神主を兼ねた。元和(1615〜1624年)の頃には御澤氏と呼んでいたが、
       後、三澤と改め今日に至っている。(大阪府神社史資料並びに東鳥取村誌より)
       又、昭和四十九年に鳥取神社の末社である蛭子命を崇め祭り鳥取神社の総代十一
       名により戎講を立ち上げ翌五十年に恵比須祭り祭行(一月、九日十日十一日)戎
       講により心願であった祠から社殿へ、並びに境内拡張も実現出来、今日に至って
       いる。」
  住  所:大阪府阪南市石田164
  電話番号:
  ひとこと:波太神社の隣にある神社で、波太神社参道を外れると、この鳥取神社が鎮座する
       という感じです。
       そして、この「鳥取神社」に「波太神社」が合祀されているようでもあるのです
       ね。

       しかし、建物は、波太神社の方が大きく由緒あり気なのです。
       ですから、なぜ、波太神社にその他の神社が合祀されなかったのか。
       何か、明治の合祀時に事情があったのでしょうね。

       さて、ここでは社名の「鳥取」について、ちょっとうだくだ言ってみたいと思い
       ます(^^ゞ

       鳥取造という姓は、天湯河板挙という人物から始まります。
       日本書紀の垂仁紀を引用しましょう。

      「二十三年秋、九月二日、群卿に詔して『誉津別命は三十歳になり、長いあご髯が
       伸びるまで赤児のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことがな
       いのは何故か。皆で考えて欲しい』といわれた。
       冬十月八日、天皇は大殿の前にお立ちになり、誉津別皇子はそのそばにつき従っ
       ていた。そのとき白鳥のくぐいが、大空を飛んでいった。皇子は空を仰いで、く
       ぐいをごらんになり、『あれは何物か』といわれた。天皇は皇子がくぐいを見て、
       口をきくことができたのを知り喜ばれた。そばのものに詔して、『誰かこの鳥を
       捕まえて献上せよ』といわれた。そこで、鳥取造の祖、天湯河板挙が『手前が必
       ず捕まえましょう』といった。天皇は天湯河板挙にいわれた。『お前がこの鳥を
       捕まえたら、きっと十分褒美をやろう』と。湯河板挙はくぐいの飛んで行った方
       向を追って、出雲まで行きついに捕まえた。ある人は『但馬国で捕まえた』とも
       いう。
       十一月二日、湯河板挙がくぐいをたてまつった。誉津別命はこのくぐいをもてあ
       そび、ついに物が言えるようになった。これによって湯河板挙に賞を賜り、姓を
       授けられて、鳥取造という。そして、鳥取部・鳥養部・誉津部を定めた。」

       つまり、誉津別命の「魂」であろうと思われる、くぐいを捕まえた人物なんです。
       ただ、「鳥」を捕まえたというだけではなく、「魂」を捕まえた。
       呪術的な役割をも持っていたんでしょうね。

       さて、鳥が魂の化身であると考えられていると見受けられる節が、古事記にもあ
       ります。
       天若日子が返し矢で死んだ後のシーンです。

      「下照姫の泣き声が風に乗って天に届いたため、天にいた天若日子の父の天津国玉
       神、また天若日子のもとの妻子たちが聞いて、降りてきて嘆き悲しんで、そこに
       葬式の家を作って、河雁を死人の食物を持つ役とし、鷺を箒を持つ役とし、翡翠
       を御料理人とし、雀を臼を搗く女とし、雉を泣く役の女として、かように定めて
       八日八夜というもの歌い舞いして遊びました。」

       鳥が、若日子の葬儀でいろいろな役割をしているのがわかりますね?

      「鳥」とは、もしかしたら、「魂の化身」そのものではなく、「魂を空に運ぶ役割
       を担った動物」ではないか、と考えるのです。

       であれば、天湯河板挙が捕まえたクグイは、誉津別命の魂をどこかに隠し持って
       いたのでしょう。

       誉津別命は、垂仁天皇がとりわけ愛した皇子であるように思えます。
       母・狭穂姫を寵愛していたことが理由の一つかもしれません。

       狭穂姫が稲城の炎の中で亡くなった時、皇子を預かり、「皇子のために」後妻を
       娶っているくらいの愛しぶりなのです。
       しかし、誉津別命は、皇太子となることはありませんでした。

       これが何故なのかは、その当時の勢力の関係などいろいろあるのでしょうが・・・。
       ちょっと気になる資料を見つけました。

       沖縄県教育文化資料センターが出版している「新編 沖縄の文学」という本に収
       められた「網張の目高蟹ユンタ」です。
       ユンタというのは、八重山などで謡われている歌謡の一種で、いろいろな情景が
       読み込まれているのですが、何分、言葉が分かりづらい。

       が、歌の節回しなどを損ないたくないので、原文を転載することにします。

      「網張ぬ(男)
       ウリ(女)
       目高蟹でんど(男)
       ハーイヘー(男)
       マタ ハーイヘー(女)
       マタ ハーイヘー(男)
       マタ ハーイヤーヌ カーヌシ(女)
       潮ぬ干しゃ(女)
       ウリ(男)
       下の家かい(女)
       ハーイヘー(女)
       マタ ハーイヘー(男)
       マタ ハーイヘー(女)
       マタ ハーイヤーヌ カーヌシ(男)
      (以下右のような順で交互に進む。囃子を略する)
       下ぬ家や瓦葺きでんど
       潮ぬ 満ちゃ 上ぬ家かい
       上ぬ家や 茅葺きでんど
       目高蟹ぬ 生れ年でんど
       蟹数ぬ 踊ぬ 有んど
       ギィダーサ蟹や 準備人数
       ダーナ蟹や 桟敷人数
       百日咳蟹や 笛吹き人数
       木殻ん蟹や 太鼓打ち人数
       木綿引き蟹や 三線人数
       潮招蟹や 踊り人数
       畦ん蟹や 狂言人数
       暴れー蟹や 棒打ち人数
       フサマラ蟹や 獅子被び人数
       ガサミ蟹や 包丁人数
       ヤフツァン蟹や クバン人数
       舟浦蟹や 膳配人数
       走馬蟹や 給仕人数」

       つまり、目高蟹の生れ年(自分の生まれ干支が再度周ってきた年のことを生れ年
       と呼ぶようです)のお祝いに、いろいろな蟹が集まってきて、いろいろな役割を
       しているのがわかります。
      「〜人数」とは「〜役」という意味ですね。

       詳しくは知らないのですが、確か、南島(沖縄のどこかの島だったと思います)
       では、子供が生まれると、その体に蟹を這わせることにより、子供が丈夫に育つ
       ことを祈るという儀礼が残っている、と何かで読んだ記憶があります。

       蟹は脱皮をしますから、「再生」「永遠の命」を象徴するんですね。

       つまり、「誕生する命を司る蟹」というようなものを感じるわけです。
       そして・・・。
       えぇ、かなり強引なんですけどね(^^ゞ
       反対に「死に逝く魂を司る鳥」というものも、同時に感じるのです。

       もし、それがその通りだと考えるとですね。
       誉津別命の魂は、鳥に荷われていた。
       それは、つまり、誉津別命の魂は「死に逝くはずの魂だった」んじゃないかと、
       そういう発想につながります。

       つまり、誉津別命が大人になっても満足にしゃべれなかったから、鳥を捕まえさ
       せたのではなく、
       誉津別命が死なんとしていたから。
       もしくは、実は、誉津別命は、母と一緒に死んでいたから。
       その魂を呼び戻すべく、その魂を運んだ鳥を捕まえさせた。

       そして、もしそうならば、「鳥取」の人々とは「人を再生させる能力を持つ人々」
       に他ならないということに・・・。

       そんな奴ぁおらへんやろ(←大木こだま調に読んでください)

       まぁ、そうなんですけどね(^^ゞ

       しかし、重要な人が亡くなった時に、その魂を呼び戻そうとする試みは、必ずな
       されたでしょう。
       それを司る役目の人々が「鳥取部」。
       当然、ほとんどの場合失敗したでしょうが・・・。
       天湯河板挙は、それに成功したのかもしれません。

       そう考えて、この鳥取神社を改めて見ると、
       ・・・ほぉおおおお・・・・・。

       ちょっとため息が零れました(^^ゞ

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