祭 神:木花開耶姫命 説 明:しおりを転載します。 「古くは北山の神として、大古山背国葛野郡衣笠村に降臨された天神地祇で、 古くより土地の人々の信仰を集めていました。 天長八年(831年)この地に氷室が設けられ、その夫役が加賀の国より移 住し、その地で崇敬していた菅生石部神の分霊を勧請して、子々孫々の氏神 とすべく、北山の神の西隣に祀って、祭神を菅生石部神の御母木花開耶姫命 と定めました。応永四年(1397年)足利三代将軍義満が西園寺北山殿を 山荘として造営するにあたり、参拝に不便になり、両者を合祀し、現在地に 移転、600年に至ります。」 住 所: 京都市北区衣笠天神森町 電話番号:075−461−7676 ひとこと:この神社は、「わら天神宮」という名の方がよく知られているかもしれませ ん。 しおりには、 「安産のご利益で有名。妊産婦の参拝が多い。 安産御守、御腹帯終日授与。 稲藁が安産御守の本体であり、そのわらに節があれば男児・節がなければ女 児誕生との古くよりのめずらしい信仰が人々の人気を集めている。」 との説明が記されています。 つまり、この生まれてくる子供の性別を占うための道具であった「わら」が どれほど有名だったか、を伺い知ることができるでしょう。 さて、この神社のご由緒を見ると、そもそもこの神社のご祭神が、 「衣笠村に降臨された天神地祇」と木花開耶姫命であることがわかります。 しかし、現在、ご祭神として記されているのは、木花開耶姫命の一柱のみ。 なぜでしょう? 一つの推理は、この天神地祇と、木花開耶姫命は同一神であった。 ということです。 なにしろ、前者、「衣笠村に降臨された天神地祇」には明確な名が記されて いませんから、その可能性は十分疑えます。 木花開耶姫は、瓊々杵尊の妻神ですが、瓊々杵尊がこの地上に降臨なさった とき、開耶姫は既にこの地におられました。 つまり、もし、この「天神地祇」が木花開耶姫のことだとすると、最初にこ の地に降りたはずの瓊々杵尊よりも、その妻の方が先に降臨していたという ことになり、それは、まずい、と。 そういう理由から、衣笠村の天神地祇の名は秘されている・・のかも??? ま、そうだとしたら、ちょっとセコい話しかもしれませんね(笑) 他の理由を考えると、天神地祇は、木花開耶姫命じゃなくて、その前に祀ら れていた、「菅生石部神」であった。 だからこそ、祭神を母神とした後は、再度合祀された後も、その名を奥に潜 めた。 この方がしっくりきやしませんか? どないでしょう。 さて、それでは、菅生石部神とはどのような神でしょう。 ご由緒を見ると、木花開耶姫命の御子神であることがわかりますね。 神社新報社の「日本神名辞典」で、「菅生石部神」を調べると、 「加賀国江沼郡式内社菅生石部神社の祭神。少名毘古那神や天津日高日子穂穂 手見命、豊玉姫命、葺不合尊の三座にあてる説がある。また、敷地天神と呼 ばれ加賀の藤原氏に尊崇されていた。菅生天神とも呼ばれ、中世には天満宮 との関係が深かった」 とされています。 穂穂手見命は木花開耶姫の息子。 「山幸彦」として有名な神ですし、その妻である豊玉姫、この二人の御子であ る葺不合尊が一緒に祀られているのは不思議ではありません。 穂穂手見命は、「天孫瓊々杵尊」の御子でもありますから、衣笠村に降臨し たのがこの神だと考えると、「天孫瓊々杵尊は『天』から、高千穂に降臨」 し、その御子は、「高千穂から衣笠村に降臨」した・・・と考えても、無理 はないようにも思います。 しかし、もっと面白いのは、少名毘古那命がこの衣笠村に降臨した、という 発想ではないでしょうか。 少名毘古那命は、親神の手から零れ落ちた神でした。 手から落ちて、最初に落ち着いたのが、この衣笠村だったとしたら・・・。 少名毘古那命は、地に落ちた後、大己貴命と共に現在の日本の土台を作りま す。 古代、ここ、衣笠村と大己貴命の鎮座する出雲もしくは三輪との関係を想像 させると思いませんか? そしてそれ以上に、少名毘古那命と木花開耶姫命との関係に心を奪われます。 少名毘古那命は、女神と関係が深いように感じるのです。 和歌山の淡島神社では、少名毘古那命は神功皇后と共に祀られ、「雛人形の 元祖」と言われています。 そして、「婦人病の淡島様が、世の女性の幸せのために祈った」という伝承 を運んだ、「淡島願人」の存在もあります。 木花開耶姫は、婦人病ではありませんが、火の中で出産されました。 苦しんだ女人であるのです。 そして、自らが婦人病だったため、世の女性の幸せを願ったとされる女性に、 中将姫がいます。 岐阜県にある願成寺に残る、誓願桜は、その証とされていて、現在でもここ に参拝にくる女人が絶えないとか。 この二柱の神の接点。わかりますか? バスクリンで有名なツムラのマークは、お姫様の意匠だと知っていました? そう。実は、中将姫がそのシンボルとなっているのです。 これは、中将姫が薬草を集めたからなんです。 だから、薬草湯を「中将湯」と呼び、中将湯の流れを汲むバスクリンの会社 であるツムラは、中将姫の意匠を採用した、と。 そういうわけです。 少名毘古那命は言わずとしれた薬草の神ですね。 私は、少名毘古那命と、「自らの悲しい病気故に世の女性の幸せを祈った」 とされる女神の結びつきに惹かれずにはいません。 両者の関係はどうなのでしょうね。 少名毘古那命は男神なのでしょうか?女神なのでしょうか? 世の不幸な女性すべての代表が、少名毘古那命として表現されているのだっ たら? それを救うのが、神功皇后・木花開耶姫・中将姫などと呼ばれる一連の女神 だったのでは?と。 そう思うと、一般に、「いたずらっ子」とされる小さ子神である、少名毘古 那神の背中に、何か寂しいものを感じてしまうのです。