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浅草神社

asakusa





  祭  神:土師真中知命 桧前浜成命 桧前竹成命 徳川家康 大国主命         
  説  明:御由緒書によりますと、
      「社名
       昔は俗に三社権現といわれていたが、明治元年に三社明神と改められ、同五年
       十月十一日に郷社に昇格し、更に翌六年二月浅草神社と改められた。
       当社の社紋の三つ網の紋は土師氏並に桧前氏の家紋、葵は東照宮即ち徳川家の
       紋である。
       起源
       浅草神社の起源については、明確な資料がなく、その創建年代を確定すること
       は不可能であるが、権現思想との関係から、本地垂述説が流行しだした、平安
       から鎌倉時代以降ともみられ、網野宥俊氏もその著『浅草神社の今昔』(昭和
       三十八年刊)の中に於いて『今より650年から700年前の創建と推考する
       ことにおいて一応異論はない様に思われる』といわれている。
       由来
       神社関係の古述としては『藤原煌窩文集』や『本浅草神社考』(林羅山著)の
       二書に、三社権現に関する記述があり、徳川時代の書物は大体この書の伝承を
       そのまま伝えているがこれは浅草寺縁起に見える浅草観音示現の伝承とほぼ一
       致している。
       即ち推古天皇の三十六年三月十八日(陽暦四月三十日)、春日うららかなる朝
       まだき、漁師の桧前浜成、竹成の兄弟が、浅草浦(今の隅田川)で漁労に精を
       出していたが、その日に限り一匹の漁もなく、投網にかかるのはただ人型の像
       だけで、始め兄弟は観音像であることを知らず、いく度か海中に投げ捨て、何
       度場所を替えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後に
       は兄弟も不思議に思い、その尊像を奉持して今の駒形から上陸し、エンジュの
       切株に安置して、当時郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語
       り、一見を請うた所、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして、自らも帰依の念深き
       仏体であるのを告げて、諄々とその功徳、おはたらきにつき説明する所があっ
       た。
       兄弟の者は始めてきく観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心のも
       ようされて、深く観音を念じ名号をとなえ、吾れら漁師なれば、漁労なくして
       はその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得さしめたまへ、と厚
       く祈念して、翌十九日再び網を浦々に打てば、願いの如く船中に魚くづ満ちて、
       大漁を得、土師真中知は間もなく剃髪して沙門となり、自宅を改めて新講の寺
       となし、さきの観音像を奉安して、供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧
       げたというのが『浅草寺縁起』伝承の起こりとなっている。
      『承応縁起』によると真中知の没した(舒明天皇の十一年(639)三月十八日)
       後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を蒙り、『汝らの親は我を海中より上げ
       て薫護せり、故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、その感得供養の力は賞す
       べきなり。即ち観音堂のかたわらに神として親達を鎮守すべし。名づけて三社
       権現と称し、いつき祀らば、その子孫、土地と共に繁栄せしむべし』といった
       意味の告示があって、ここに三社権現社が創建された様になっている。
       これによると三社の創建は今を去る1357年の昔ということになるが、これ
       は少々無理の様で、文中に見える『権現』の初見すら、既に承平年中(923
       年〜937年)であり、『応永縁起』に於いて土師真中知を阿弥陀如来の化現
       とし、桧前浜成を観世音菩薩、桧前竹成を勢至菩薩の夫々化現としている事か
       らも、平安末期から鎌倉へかけて仏教普及の一つの方便として、仏が本であり、
       神は仏が権りに姿を現じたものである、とする権現思想が流行し出した以後に
       於いて、上記三氏の末孫が崇祖のあまり郷土神として祀ったものであろうと推
       定される。』
       とあります。
  住  所:東京都台東区浅草2−3−1
  電話番号:03−3844−1575
  ひとこと:有名な雷門のある、「浅草寺」の傍らにある神社です。
       ってことで、神様というよりも、仏様に関心を持つべき神社ではあるのでしょ
       うが・・・。

       土師真中知命。
       この名前が引っかかるんですよ。

       この神様(人物)、音をひらがなで表すと、「はじのまつち」です。

       この神社の創建が推古天皇の時代というのは無理がある・・・とこの由緒書の
       作者はおっしゃってますが、土師真中知が推古天皇の時代の人物である、とい
       うのは事実かもしれません。

       としたら、ですね。
       少し時代の上った、継体天皇の御代に、こんな人物がいます。
      「箭括麻多智(やはずのまたち)」

       常陸国風土記に登場する人物で、夜刀神を追い払い、田畑を開墾した人物です。

       もちろん、全く別人かもしれません。
       しかし・・・。
       そのまま看過するのは、何か惜しいような気がして、ひっかかってひっかかっ
       て・・・。

       ただ、関東は通り過ぎたくらいの私には、このひっかかりを形にすることは、
       できんのです。
       誰か、何か思いつきませんか?

       箭括氏と土師氏の関連だけでもなんとか・・・。
       と思うのですが、お手上げでございます。
       あぁ、歯がゆい。

       仕方ないので、土師氏に話しを移します。
       土師氏の祖神は、天穂日命ですね。
       天照大神と素戔鳴尊が誓約をした時に生まれ出た神様のうちの一柱です。
       出雲へ国譲りの交渉に行くも、大己貴に心服してしまい、高天原には帰らなか
       った・・・という、高天原サイドから見ると、「裏切り者」ってことになりま
       すね。

       しかし、出雲側から見ると、
      「素直でなかなか見所のある男」
       ということになりましょう。

       事実、その子孫から、
       気は優しく、智恵が回り、力持ち。
       相撲取りの元祖・野見宿禰公が輩出します。

       野見宿禰公は、力士の元祖としても有名ですが、
      「殉死の風習を止めるため」に、埴輪を発明した人物でもあるんです。

       その功績を認められ、土師氏は古墳つくりには欠かせない氏族となってます。

       また、相撲といっても、現在の相撲とはかなりルールも違います。
       現に、野見宿禰公とお手合わせをした、当麻蹴速公は、背骨を折っ亡くなって
       ます。

       つまり、もしかしたら、古代、相撲は、
      「人を神に捧げる」
       という儀式の一端だったのかも・・・とも考えられるんですね。

       そんなことを考えると、土師氏は、
      「死に関わる氏族」
       と表現することができます。

       だから、ね。

       夜刀神を、
      「神として祀るゆえ、山の上に退去せよ」
       と・・・邪魔となる「神」を祓うには、適材だと思うんですよ。

       そう考えたら、「神」を祓った後、観音様がやってきた、というのは、実〜
       に、意味深長。

       なんですけどねぇ〜〜〜

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