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穴織宮伊居神社

ayahaikeda




  祭  神:穴織大明神 応神天皇 仁徳天皇
  説  明:長くなりますが栞を転載します。
      「伊居太神社は、正規の名称を穴織宮伊居太神社といい、延喜式第九巻神名帳その
       他の古文書に記されている通り、由緒正しく、歴代の天皇、皇族、将軍その他の
       高貴なる方の崇敬の厚い神社であって、歴代の天皇、皇族の勅願所として官幣
       (天皇が勅使をたてて、お祭を行われること)を奉られた神社である。
       当神社の機嫌を述べるためには、境内の中にお祀りしてある猪名津彦神社の祭神
       について述べる必要がある。
       猪名津彦神社の祭神は、阿知使主(あちのおみ・下坂神)及びその子都加使主
       (つがのおみ・岩坂紙)(武将坂上田村麿はこの子孫なり)の二神であり、父阿
       知使主は漢(中国)の霊帝四代目の曾孫である。
       中国の昔、漢より魏へと政治の実権が移り、漢の子孫は追われて、帯方と言われ
       ていた北中国から北鮮の辺りまで神牛と云う占いによって、たどりつき、部下と
       共にここに宮城をつくり住むことにしたのである。ところが魏の圧力がここでも
       次第に強くなり危険になってきた。そこで阿知使主は一族の者に、『若しこのま
       まこの国にいたならばおそらく一族部下は滅ぼされるであろう。しかし聞くとこ
       ろによれば東国(日本)に聖主(立派な天皇のこと)があるということである。
       私はこの天皇に仕えるのが最も良いことであると思う』と伝えて自分の子都加使
       主、その妹の迂興徳(うこうとく)と、部下七姓(七つの色々の姓の人)の十七
       県の部下たちをつれて応神天皇二十年に日本に渡り気化した。
       応神天皇は、この一族に大和の高市郡檜前(ひのくま)村を領地として与え、こ
       こに住ましめられた。
       阿知使主は当時の日本の文化程度が非常に低いのを見て『帯方という国には男女
       共に才芸の優れたものが多く、最近では高麗、百済(北朝鮮)の辺りを流浪し、
       不安な毎日を送っています。これらのものたちを使いを出して日本に呼び寄せて
       いただきたい。』と天皇に懇願したので天皇は早速八腹氏に命じてこれを迎えに
       やられ連れ帰って日本の国民にされた(日本に今残る漢氏の先祖である)。
       天皇は更に織物、衣服などの不完全なることに気づかれ、三十七年に阿知使主・
       都加使主に命じ中国に渡らせ機織(きしょく)の師、裁縫の師をもとめしめられ
       四十一年に裁縫師兄媛、弟媛、及び穴織(あやは)、呉服(くれは)の機織の師
       四女を伴い帰国した。
       たまたま、応神天皇が崩御せられたので仁徳天皇にお仕えすることになり天皇は
       その功を賞して新たに猪名の津(現在兵庫県川辺郡及び伊居太、豊中一円)を領
       地として与え、ここに穴織、呉織の機殿、縫殿を建て、全国の婦女子を集めて技
       術を教育し又この地の治安、行政の任に当らしめられた。この地名にちなみ、猪
       名津彦の神と申し上げる。次代履中天皇皇太子の折、住吉皇子が反乱を起こし、
       皇太子を殺いたてまつろうとしていることを知り、阿知使主は平群木莵(へぐり
       のつく)とともに難を皇太子に告げ、馬にて逃れ禍をさけたので、後、皇太子が
       皇位につかれた時、その功により蔵の官をさずけられ、新たに領地を賜った。
       都加使主は、仁徳天皇三十一年四月十一日、父阿知使主は、反正天皇三年四月八
       日に長逝され、同年二神の功を賞し、更正まで祀らしめんとして社を建立され猪
       名津彦神社と命名された。
       (漢・秦・大蔵・丹波・田村・坂上等の姓の人はみなこの二神の子孫である)
       以上阿知使主、都加使主二神につき予備知識として述べたが、上古、垂仁天皇よ
       り、応神・仁徳両天皇に亘る次代は我国に外国文化が入り始めたときであって、
       特に応神天皇は学問・殖産・興行に意を用いられたのであるが、中にも衣服、裁
       縫、織物の術が遅れていることを痛感され丁度中国より気化した阿知使主よりそ
       の術が中国呉の国に於いてすぐれていることを聞かれ、阿知使主父子に命じて勅
       使として呉国に渡り、女工を求めしめられることとなった。
       両名は同天皇三十七年丙寅の二月勅命を奉じて部下百二十六人を連れ、まず高麗
       の国へ至り、これより先、呉への道、不明なるため高麗王に案内者の人選を依頼
       し、久礼波(くれは)、久礼之(くれし)の両名を得、漸く呉国へ到着したので
       ある(呉なる文字を『くれ』とよむのはこの両名の名を記念するためであるとい
       われる)。
       呉王は日本よりの勅使の到着をいたく喜び饗応し、のぞみの趣を了とし、早速数
       多の優れたる工女の中より撰びに撰び人選を重ねて裁縫の師として兄媛(えひめ)
       弟媛(いろとひめ)を、機織の師として穴織・呉織の四媛を贈られた。
       かくて阿知使主等一行は山海万里の長途をつつがなく四十一年始めに筑紫へ帰着
       せるところ、当時筑紫の領主、胸形大神(宗像神社の祭神)のねんごろなる乞い
       により断るを得ず兄媛を置き(筑紫御使君の祖先)三媛を伴い同年二月摂津国武
       庫浦に着船。応神天皇崩御の報に接した。
       阿知使主は驚きかつ悲しみ、急遽船を猪名の海に乗り入れ、猪名の港より上陸し、
       馬にて都へ走った。子、都加使主は船に三媛を護って留まり、父の帰船を待つこ
       と三日、時に如月の海波浪荒く、風激しく危険なるを思い、猪名の港に船を着岸
       (当神社の下なり)せしめ、三媛を上陸、仮の宿舎を作り、ここに守護すること
       とした(今渋谷の地なり)。阿知使主、都より帰り、別途沙汰あるを伝え、暫時
       この地にて滞在され漸く仁徳天皇の即位あり、六月十日阿知使主一族並びに三媛
       ともに同天皇に仕えることとなった。
       天皇厚く阿知使主の労をねぎらい給い、領地として猪名の都の地一帯を賜った
       (現池田市を中心とする付近の地なり)。
       阿知使主はこの地に織殿・縫殿を建て(平尾なりといわれる)、盛んに機織・裁
       縫の業を興すこととなった。呉国へ随伴せる百二十六名中四十二名は、阿知使主
       の一族で、みな漢氏を名乗る人たちで、六名は奴玖部(ぬくべ)、比良部(ひら
       べ)を頭として六役を定め、年遇収納と、湊の奉行職を掌り、十二名は巨勢林
       (こせばやし)、久米比手(くめひで)を頭として呉織の織殿を守護し、他十二
       名は涯ろう(羊偏に良)佐々和志(かいろうささわし)、犬かい(羊偏に良)物
       部(いぬかいもののべ)を頭として穴織の織殿、縫殿を守護、残る十二名は知代
       保奴気臣(ちよほぬきのおみ)、牟手我孫宇奴比古(むこあびこうぬひこ)を頭
       として阿知使主の家臣とし、職責を分担し、能利布弥(のりうね)、宇気船(う
       きふね)等、八十四名の水手達は、阿知使主に属して、地内全般の治安、行政に
       任じ、一族挙げて我国の機織、裁縫の業発展に専念することになった。
       そこで、仁徳天皇は全国に養蚕を奨励し、採取した繭を全部この織殿に納めしめ
       られ、糸につむぎ、染色、加工され、上は宮中の服飾より、国民の男女、四季、
       階級に応ずる服制を定められて全国に配布されると同時に、各地より婦女子を集
       めて穴織の織殿にて綾羅(りよらお)を織る業をはじめ裁縫の道を教授せしめら
       れた。
       ここに於いて穴織の織殿、縫殿は日に日に教えを乞う者多くなり弟媛をはじめ阿
       知使主の家臣十二名其の他もあげて穴織の織殿を援助し、生産、教育に励んだた
       め、この道いよいよ盛んになり、全国所々に精巧なる織物を産するに至った。
       したがって、猪名の湊は夜に日に殷賑を究め、ここに難波猪名の津(津は大きな
       町のことなり)が開かれることとなった。
       穴織媛は仁徳天皇七十六年九月十七日長逝され遺骸を梅室に、呉織媛は翌十八日
       に逝去され、遺骸を姫室におさめられた。
       天皇は両媛の功を多とせられ、翌七十七年己丑十一月十三日、勅定により神社を
       建て、御鎮座式を執り行われた。これより呉織の里と呼ばれたるこの地を伊居太
       と改め、当神社を秦上社伊居太神社(はたかみのやしろいけだじんじゃ)と称し
       奉ることとなり、当社の創始である。
       即ち、媛が日本の地に上陸の第一歩を記された現地に媛の功績をたたえて都の守
       護神として祀りたまい、又阿知使主、都加使主は反正天皇の勅正により下坂・岩
       坂の神として秦上社の北西、九十米のところに祀られ、猪名津彦神社と申し上げ
       同じく都の守護神とされ、俗称辰の宮、又は秦上社の奥院といわれるに至った。
       以来この二社は、宮中の勅願所として官幣をたまい、歴代天皇、皇族、将軍たち
       の崇拝をうけ、桓武天皇延暦四年十一月十三日勅命により社殿を新たに、応神天
       皇、仁徳天皇を相殿に祀らしめられ、産業、文化、学芸、武術の神として尊崇せ
       しめられた。
       かくて阿知使主の四代の孫・漢直努留間直(はたのあたへぬるまのあたへ)を二
       社の神主とし、波夜嶌直(はややしまのあたへ)を始め、四十四名が神領を治め、
       天下安全、宝祚の延長を祈らしめたまい、人皆この二社を崇敬せざるなしといわ
       れ、以来、努留間直より代々、この二社の神職を継ぎ、八十五代目の現宮司に及
       んでいる。
       祭神応神天皇・仁徳天皇については既に日本歴史に衆知なるを持って、これをこ
       こに略する。」
  住  所:大阪府池田市綾羽町2丁目4−5
  電話番号:072−751−4652
  ひとこと:ひとつ不思議なのが、「弟媛」の存在です。
       日本国内の織物・縫い物技術の向上に努められたのにも関わらず、「呉織姫」
      「綾織姫」と比べて、扱いが小さくありませんか?

       二織姫の遺体は「室」に安置されているのに、弟姫の死については、全く触れら
       れていません。
       これはどうしたことでしょうか?

       伝承によれば、日本へ辿り着いたのは、「兄媛」「弟媛」「呉織姫」「綾織姫」
       の四名。

       そのうち、一人、「兄媛」は、宗像大社に留め置かれた。

       この池田の地に辿り着いたのは、「弟媛」「呉織姫」「綾織姫」ということは、
       簡単な引き算(というほどのことでもありませんが(~_~))で、わかるのに、弟
       媛の最期については触れられていない。

       弟媛の最期の地は、果たして池田だったのでしょうか?

       さて、この四媛が摂津へやってきたのは、応神天皇の時代です。
       応神天皇は、「うつろ船」に関連の深い天皇だと思うのです。

       まず、記紀の伝承。
       神功皇后は、応神天皇をお腹に宿したまま、戦いの船出をしました。
       つまり、応神天皇は、「子宮」という「うつろ船」に乗せられて、船出をしたと
       ・・・非常に苦しいかもしれませんが・・・いえるでしょう?

       そして、財団法人法政大学出版局から発行された「南島説話の研究」によります
       と、「惟賢比丘筆記」には、「大隅正八幡本縁事」という記事と書かれています。

       その内容は、震旦国陳大王の娘・大比留女が、太陽の光を胸に浴びることにより
       懐妊してしまうところから始まります。
       処女懐妊ですね。
       それを恐ろしいと感じた父王は、大比留女を皇子と共に「うつろ船」に乗せて流
       してしまいます。

       母子が流れ着いたのは、大隅の磯。
       それが今に言う「八幡崎」だというわけです。

       そして、その大比留女は、「香椎聖母大菩薩」として仰がれた。
       皇子は、「正八幡」。八幡大神とは、応神天皇のことですね。

       つまり、応神天皇は、母親とうつろ船で、震旦国(中国ですね)から流されて
       きた王子なんです。

       しかも、母の国での名前が「大比留女」てのがなんとも。
      「オオヒルメ」とは、天照大神の別名でもありますから。

       そして・・・。
      「繭」も、一種のうつろ船ですね。

       うつろ船は、現代の私達には、「罪人を乗せる船」というイメージが、あるで
       しょう。
       一度乗ったらもう降りることはできない。
       行く先も定められず流されるわけですから。

       そして、もう一つは、「卵」のイメージ。
       人は、「卵」に入ってどこともしれず流されることにより、「再生」するので
       す。

       だからこそ、補陀洛渡海船は、出口をふさぎ、「うつろ船」に仕立てられるの
       でしょう。

       うつろ船に関連の深い「応神天皇」の時代に、「うつろ船」を携えて、やって
       きた姫たちが乗ってきたのは、まさかうつろ船ではなかったでしょうが(^^ゞ

       ただ、彼女らを連れてきた、阿知使主の子孫である「秦氏」は、スクナヒコナ
       の神を崇拝した、と、「服部天神社」の由緒書には説明されています。
       スクナヒコナ神が乗ってきた、「ガガイモの船」は、「桃太郎の桃」「瓜子姫
       の瓜」と同じように、うつろ船ではなかったのでしょうか?

       彼女らがやってきたのは、ただ、織物を広めるためだけではなかったかもしれ
       ません。

       そう、何かを「再生するため」に、うつろ船にうつろ船を重ねて、旅をしたの
       かもしれません。

       彼女らが4人でやってきて、「三姉妹が鎮座する宗像大社」で一人留まり、改
       めて三姉妹となってやってきたのにも、何か意味があるのかも?

       4人の織姫がやってきた。
       1人は「宗像」に留まり、3人になった。

       3人の織姫がやってきた。
       1人は「梅室」に入り、2人になった。

       2人の織姫がいた。
       1人は「姫室」に入り、1人になった。

       1人の織姫がいた。
       彼女はまだ機を織り続けている。
       だから、まだ「誰もいなくな」ってはいない・・・。

       そんな気がするのです。       

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