祭 神:聖神 説 明:いただいた由緒書には、 聖神(須佐男尊の御子=大年神 大年神の御子=須佐男尊の御孫) 皇宝国家守護神として奉斎せられた。御神徳の広大なる神。 というただし書きがあります。また、 「聖神社は信太明神とも称し、信太山丘陵地(約百萬坪)旧陸軍演習場 現自衛隊演習地、火葬場 鶴山台団地等を含む土地が境内であった。 天武天皇(680年)白鳳三年秋八月十五日、勅願により、信太首を して聖神を斎き祀らしめ給うと伝う。 さきに述たる如く、境内七十七万七千六百坪(当時の一間九尺)内に 萬松院、大蔵寺の別当寺もあり、由緒ある神社なるも、史料焼滅の為 祭神も詳らかならずして、明治五年以来社格郷社として、昭和十二年 下旬、祭神の決定をみる。 又大正十三年四月十五日、国宝の指定がありました。和泉国三の宮 (一宮・大鳥、二宮・穴師、四宮・積川、五宮・日根)。 当初の建造物は、戦国時代の兵火により焼失せるものと考えられ、現 在のものは、慶長九年、右大臣豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として 本殿を造営せしめたものである。 天平四年(732年)聖武天皇、大旱に際して、東国五大社、井八幡 宮(泉井上)に奉幣ありて、降雨の祈願せしめ給う。その時、若干領 地寄せらる。 貞観元年(859年)五月七日官社に列し、八月丙申従四位下を授け らる。 昌泰元年(898年)宇多上皇の御幸あり、御衣を納め給う。その時、 菅原道真供奉す。 延喜の制、祈年祭に鍬一口を加えられる。 後白河法皇、御辰筆の御額一面奉納せらる。現在も社宝として存す。 (小栗街道一ノ鳥居にある時、助松の漁師が漁の時、御光の為まぶしく て漁が出来ぬとて降ろしたと伝えらる。) 後村上天皇の御代、社領の御寄進あり。 天正五年(1577年)内大臣織田信長、社領一千百石の朱印地を寄 進。 ○的伝説 阿部保名信仰の由来は当社とす」 とあります。 住 所:和泉市王子町919 電話番号:0725−41−1545 ひとこと:聖神は、別名、信太明神。 信太と聞くと、ぴんとくる人もいるかも知れません。 安倍晴明の父、保名が、病弱の妻・葛の葉の健康を、信太明神に祈った ところ、「熱心な祈りゆえ、祈りは叶う」と言われ、言葉通り、葛の葉 は、元気になります。そして産まれたのが晴明です。 ただ、この葛の葉は狐の化身であり、晴明に、狐の姿に戻っているとこ ろを見つかってしまったんです。 仕事から帰ってきた保名が見つけたものは、障子の上に書かれた 「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる 信太の森のうらみ葛の葉」 という歌と、母を恋しがって泣く晴明だった。 母を恋しがった晴明は、信太の森を尋ねていくと、白い狐が姿を現し、 どこへともなく、去っていった・・・。 こんなことから、聖神は、今では、占い師の守護神として有名です。 話の詳細は、浄瑠璃、「葛の葉」をどうぞ。 この神社は、こんもりした森の中にあります。 今でもこんなに静なこの森に、晴明は、母を尋ねてきたのだ なぁ・・・と、つい「お母さ〜ん」と呼んでみたくなります? さてさて、聖神が須佐男尊の孫であるという典拠は、古事記です。 須佐男が山津見神の女の神大市比売と結婚して、大年神と宇迦御魂を 生み、その大年神が神活須毘の神の女の伊怒比売と結婚して、大国御 魂の神・韓の神・曽富理の神・白日の神・聖の神を生んだとあります。 五人兄弟の末っ子なのですね。 それにしても、興味深い名前の兄弟です。 大国御魂の神。 出雲国風土記に頻出する神名です。 大国主命の別名ともされますし、名前通り、「大国」の守り神・もし くは君主なのかも知れません。 韓の神。 韓から来られた神様なのでしょうか?それとも韓の君主? それはないかなぁ(^^ゞ 曽富理の神とは「そふりのかみ」でしょう。 「総理の神」に通じる・・・というのは、嘘です。 白日の神。 「しらひのかみ」=「新羅の神」でしょうか。 そして、末っ子が「聖神」。 なんつうても、「聖なる」神様なわけで、何か特別な霊験があったの じゃないかな?と想像してみるのですが、わかりません。 ただ、「ひじり」を「聖」とせずに、「日知り」としたら? なるほど(^^ゞ 暦博士たる陰陽師、晴明に関係深い神社ですね。