祭 神:火雷大神 天香山命 高皇産霊神 大日霎貴命 天津彦火火瓊瓊杵命 伊古比都幣命 説 明:栞によりますと、 「火雷大神 この神は伊邪那岐命・伊邪那美命の御子で火の迦具土神とも火産 霊神とも申し、火の事をおつかさどりになり、世の中の物を熟し 調え賜う御功徳が高く、火は我々の日々の生活上一日も欠かすこ とのできない大切なものであると共に、又一度火を粗末にするこ とでもあれば、万物を焼き滅ぼしてしまう恐ろしいものであって、 この火を主宰したまうこの神様は常に吉事と凶事の境にあって吉 凶禍福を司っていられます。故に我々はこの神様の広大無辺の御 神徳を仰ぎ尊びまつり感謝し奉り、この荒御魂の荒び給うて火災 などの厄災にあわせ給うことのないように、国家の繁栄と一家の 隆昌を祈願しなければなりません。 長地でも大膳職菓餅所という菓子や餅、策餅等を作っていられる 所の守護神として火雷大神様をお祭りになっていられます。 従って、当社を菓子や麺類の祖神を祭る神社として信仰も篤く、 特に火を扱う職業の人々の尊崇を集めています。 天香山命 この神は天照国照火明命の御子で、またの御名を石凝姥命とも申 し上げ、天照皇大神が天岩屋戸にお篭りになった時に天の香久山 の金を掘りとって八咫鏡を造って皇祖に奉り、また同じ山の竹を 切って天磐笛を作り自ら吹き鳴らし、大御神の大御心を慰めまつ り、又同じ山の天の波波迦を取って思兼神と御相談になって天照 皇御神の御心を伺いまつったという神様で、音楽の祖神、鍛冶工 の祖神としてあがめられています。 大日るめ貴命 高皇産霊神 天津彦火火瓊瓊杵命 大日るめ貴命は、天照皇大御神のことであり、又高皇産霊神、瓊 々杵命は共に皇祖の神々であられ、火雷大神、天香山命と共に、 因縁の浅くない神々でありますので、当社の相殿にお祭りしたと 伝えられています。 伊古比都命 この神は御食都神に坐して衣食住を司る神様であります。 御創建 当神社の御創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられています が詳らかでありません。しかしながら神社に伝わる旧記によれば、 第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置かれ、大彦命を北陸に御差 遣され給うた時に笛吹連の祖・櫂子この軍に従って都をたって、 寧楽山(奈良山)にお着きになった時、建埴安彦が兵を挙げて、 都を襲撃しようと企てていることを聞いて、直ちに京へ引き返さ れて天皇にこのことを御報告し、建埴安彦を討ち果たすことを、 奏上せられた。 このことを知った建埴安彦の妻・吾田媛は一軍を率いて忍坂から 都に攻め入ろうとしたので五十狭芹彦命を遣わされてこれを討滅 された。一方大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦い、これを追って、 和韓川の南で川を挟んで対陣していた時、櫂子の射放った矢は、 安彦の胸を貫いてこれを倒したので、賊軍は遂に降伏して平定し た。天皇は大いに櫂子の戦功を嘉賞し給うて天磐笛と笛吹連の姓 を賜わった。 この夜天皇の御夢にこの天磐笛をもって瓊々杵尊を奉斎すれば、 国家安泰ならんとのお告げによって、瓊々杵尊を当社の御相殿に お祭りになったと伝えられています。 即ち人皇十代の崇神天皇の御代に既に当社があったということで、 当社が如何に由緒の古いお宮であるかを伺い知ることができます。 当社を一に笛吹神社と申すのは、火雷神社と天香山命を祭った笛 吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられます。 天香山命を祭り、その子孫がこの土地に住んで、その祖先の神霊 に奉仕して、その地方の人たちを化育して、その地を笛吹と唱え、 大化前代からの鼓吹戸という品部のうち笛吹といわれた人達が居 住していた根拠地の一つであったと考えられています。」 とあります。 住 所:奈良県北葛城郡新庄町大字笛吹神山 電話番号: ひとこと:火雷命は、ヒンズー教の最高神・シヴァ神を彷彿とさせます。 シヴァ神は、「破壊と創造の神」。 破壊がなければ、創造もないというのは、東洋的な考え方だと、 思います。 この神社の境内には、大砲が奉納されています。 屋根もないところに、安置されているのに、錆びてません。すご いもんですね。 この神社より東・明日香村に万葉集で有名な「雷丘」という丘が ありまして、私は勝手に、「なんか関連がある」と思い込んでい たのですが、日本書紀には、 「雄略天皇が小子部スガルに、三輪の神を捕まえてこい、と命じた ところ、小子部スガルは大きい蛇を献上した(つまりこの時代に は三輪の神は蛇という通念があったことがわかります)。 天皇が斎戒せずにいたところ、蛇は目を輝かせ、雷鳴が走った。 恐れた天皇は蛇を雷丘に放した。」 という記事が見え、全然関係なかったことがわかりました(^^ゞ さて、日本書紀には、櫂子という人物については何も記されてい ず、埴安彦を討ったのは、彦国葺命ということになっています。 彦国葺命は、和珥氏の先祖と言われています。 笛吹連と関係があったのかも知れません。 それにしても面白いのは、日本書紀と大筋は同じだけれど、微妙 に違う、この神社の社伝です。 天磐笛という名前も、記紀には見えませんし、櫂子という名も、 やはり見えません。 この神社より北・王子町にある龍田大社にも独自の「龍田風神祭 祝詞」があります。 この中でも、記紀には出てこない独自の伝承が語られています。 即ち、崇神天皇の御代、不作が多年続いた。 啓示事を仰ぐと、それは龍田の神が祟っているからだとわかった ので、龍田立野の小野にこの神を祀った。 と。 笛吹神社・龍田大社。 どちらも崇神天皇の時代について、独自の伝承を持つのですね。 とすると、崇神天皇の時代には、かなり広い範囲を天皇が治めて いたんでしょうね。 笛吹神社の伝承は、崇神天皇と、この神社との良い関係を示して いますが、「櫂子」が生粋の武人だったとしたら、いきなり笛吹 の連を賜わることはないでしょう。 武人であるというよりも芸術家だったんでしょうね。 磐笛にも興味が涌きます。 岩笛は、現に縄文遺跡から見つかっているようで、古代の人達は、 この笛を用い、神様を降ろしたといわれているようですが、現代 でも、能楽などに遣われているようです。 どんな音を出すのかわからないのですが、100キロHZまで出る とか。 人間の可聴限界は、20キロHZと言われます。 犬笛を聞き分ける犬でさえ、50キロHZ。 100キロHZを聞き分けることができるのは、イルカやコウモリ などの「超音波で会話をする」と言われる動物達です。 なるほど。 神様をお呼びするのが磐笛ならば、イルカやコウモリは神様に近 い動物、と言えるかも知れませんね。 また、角刺神社でお会いした古老によれば、忍海界隈のたたらの メッカは、ここ火雷神社近辺とか。 西粟倉のタタラ唄には、 「♪金屋児神のヨー 生まれヨと問えばー 元は桂で 安部ヨが村よ」 とあり、葛城の安部には、穂雷神社があります。 当社とまったく無関係じゃないよね、絶対。 興味深いです。