祭 神:素戔鳴尊 説 明:栞によりますと、 「抑々一ノ矢八坂大神の御儀は、その昔清和帝の朝、貞観年間山城国 愛宕郡(現京都府)より、御祭神素戔鳴尊を、病厄難・海上安全の 守護神、振武文教の祖神として崇め勧請鎮め奉った由緒ある御社で あり、創祀以来悠久実に千百有余年の星霜を閲しております。 天慶年中(938年〜947年)には、藤原秀郷が深く崇敬、弓矢 を寄進し戦勝の神恩を感謝、正治年中(1199年〜1201年) に至り八田知家が小田に居住以後は、小田家歴代の崇敬篤く、又、 建武の兵乱(1330年代)に藤原藤房、小田に在りし時は、玉取 の里御花圃と称える小田家の遊覧所(現つくば市花畑)に度々来遊、 八坂大神の霊顕あらたかなるを慕い、篤く崇敬せられました。 御社殿は、永禄(1558年〜1570年)より天正(1573年 〜1592年)の初めに至る小田家戦乱の際に戦火をあび炎上、後 文禄年中(1592年〜1596年)に郷民挙ってこれを再建しま した。 過ぐる延宝四年(1676年)四月に至り、領主堀東市上通周が改 めて御本殿を造営、さらに宝永八年(1711年)三月堀隠岐守利 寿が拝殿を造営、現在に至っております。 明治六年(1873年)には郷社に定められました。 このお社は、その昔から『一ノ矢の天王様』と呼ばれて広く関東一 円の崇敬者から尊崇されています。 伝説によると、大昔、九州からカラスが飛んできて田畑を荒らすの で、これを退治しようと天に向かって矢を放ち、第一の矢で射落と した所に御鎮座したのが、この一ノ矢八坂神社(一ノ矢天王)だと 言われています。 カラスは足が三本あり、玉を持っていたので、射落とされた地域を 『玉取村』としたとされています。 また、現在でも矢を射た所は、『天矢場』、玉を埋めた所は『玉塚』 という地名で呼ばれています。 天王様とは牛頭天王の略で、素戔鳴尊と同一神として崇められてい ます。牛頭天王は祇園天神ともいい、水神として信仰されていまし たが、やがて疫神(病気の神)を支配する神(行疫神)として信仰 されるようになりました。 この神を勧請した平安京の祇園社(京都の八坂神社)では、貞観十 八年(876年)に疫病の大流行があり、占うと牛頭天王の崇りで あったことがわかり、この悪病を祓うために盛大な御霊会を行いま した。これが祇園祭(天王祭)の始めであるとされています。 当神社の祇園祭は、毎年旧六月七日に執行されますが、『にんにく 祭』とも呼ばれ、素戔鳴尊が朝鮮から御持ち帰りになられたという 『にんにく』が、病厄難を祓い清める御守りとして、古くから社務所 において頒布されております。」 とあります。 境内案内板には、 「一ノ矢の地名にまつわる伝説によれば、むかし友永という勇士があ って、三本足の烏を射たところ、一の矢二の矢では射損じ、ようや く三の矢で射止めた。その一の矢が落ちたところから一ノ矢という ようになったと伝えられている。」 とあります。 住 所:茨城県つくば市大字玉取2617番地 電話番号:0298−64−1132 ひとこと:おもしろ〜〜いっ!! まずは手近なところから、「にんにく」。 にんにくっていつごろ日本に入ってきたのかしらん。 大蒜という漢字があるくらいですから、そうそう最近のことじゃ、 なさそうです。 が、日本料理に、にんにくってあまり、いやほとんど使われないで すよね。 食べ物としてより、厄除けとして専ら用いられたんでしょうか? いや、ちゃいますね。薬として入ってきたんでしょうね。 としたら、「病気除け」の意味はあってます。 日本へにんにくが入ってきたのは、西暦700年ごろじゃないか、 なんて言われてます。 ん〜〜、素戔鳴尊が持ち込んだってのは、ちょっと苦しいですね。 この神社で、「病気除け」「素戔鳴尊」「にんにく」が結びついた のがいつごろか、ってのに、興味持っちゃったりして(^^ゞ さて、次に三本足の烏です。 熊野の神遣い。 八咫烏。 も三本足だと言われていますが、この一ノ矢神社の伝説に出てくる 烏の特徴はもう一つ、「玉を持っている」ことにあります。 この伝説の裏はなにか? 田畑を荒らすというのは、人間に害をなしてるわけですよね。 でも、その烏は、足が三本あり、玉を持っている。 つまり、聖性を持ってるんですね。 その烏は射落とされ、玉も埋められる。 そして、その烏は、九州からやってきた・・・。 九州から、この茨城の地に、大昔、何がやってきたのでしょう? あのね。九州から烏先導にしてやってきたのは、神武天皇ですよ。 でも、神武天皇は、橿原に落ち着いて、都造っちゃったはずなんで すよね。茨城までその後、足延ばしたなんて話は日本書紀・古事記 には載ってません。 でもね、人間の欲望にはキリがないんですよね。 橿原まできて、腰落ち着けられるでしょうか? もうちょっと、もうちょっと東へ・・・ってなるのが、人情っても んだいねぇ・・・という気がします。 そして。 この神社の伝説をもとに考えると、この茨城まできて、この烏を先 導にした、聖性のある人は、殺されて、持っていた宝ごと埋められ ちゃうわけですねぇ。 その時代、茨城にいた、有力な豪族・部族は何氏でしょうね。 あ、この神社の案内板では、この烏を射た勇士の名前は「友永」と なっていますね。日本風な名前だぁ。 つまりどういうことでしょう。 推測1 この伝説は、結構近世のもんである。 推測2 この地域は、随分古代から、現代風の名前・言葉が使われ ていた。 推測3 この「友永」という名前は、近世の当て字である。 どうも、3のような気もしますが、2だとしたら、面白い。 なにしろ、ここは、「祖神様」のおわします、筑波山の麓。 日本の祖先がいるこの土地に、九州からの(もしくは九州を経由し た)聖なる徴を持つ部族がやってきて、倒された。 わくわくっ!! しかも、1の矢・2の矢は外れて、3の矢で当たったというのは、 どういうことでしょうか。 しかも、この神社は、「外れた」一の矢の落ちた後に創建されたの です。 なぜ? こんな風に想像してみます。 例えば、矢じゃなく、人間だと。 それならば、「外れた矢」の子孫が、この神社のある地に住み着き、 後世、神社を建てた。 この神社の祭神は、疫病が流行った時に「疫病除け」の祇園さんか ら勧請したものだということですから、この「一の矢」の場所に、 住み着いた人達がどんな人達か、のヒントにはなりません。 ってことで、結論はでないんだけども。 何しろ、関東のことは、全然勉強不足で、せっかくおいしい材料な のに、料理人がへたくそで申し訳ないっ!! 下拵えしといたので、仕上げはみなさん、お好みでお願いします。