祭 神:高倉下命 天照大神 説 明:案内板を転記します。 「熊野権現として有名な熊野速玉大社の摂社である。 熊野三山(速玉・那智・本宮)の主神降臨の霊地熊野信仰の根本とも申す べき霊所である。 御祭神高倉下命は、建国の功臣・熊野三党(宇井・鈴木・榎本)の祖とし て知られ、農業・漁業の守護神として御神徳が高い。」 「史跡 神倉山 山上には、通称『ごとびき岩』といわれている数個の巨岩があり、御神体 として崇められている。古代からながく熊野の祭礼場として神聖視されて きた霊山である。急斜面に自然岩を積み重ねた石段、二月六日夜の壮観な 火祭り(お燈祭り)下馬石標も指定文化財とされている。」 「天磐盾 神武天皇紀(日本書紀)には戌午年(紀元前三年)六月に、狭野(佐野) を越えて『熊野神邑に至り、旦天磐盾に登りて』と記しています。 紀元二千六百五十年(平成二年)を奉祝して神武天皇聖跡である熊野神 邑(新宮の古称)の天磐盾(神倉山)の顕彰碑を神倉神社奉賛会が奉献 し、文字は鈴木江邨氏が謹書されています。」 住 所:和歌山県新宮市神倉1−13−8 電話番号: ひとこと:自然磐をつんだ階段の登りにくいこと、降りにくいこと(T_T) それはそれとしまして、高倉下命とはどんな神様でしょうか? 日本書紀の神武天皇紀を引用しましょう。 「天皇はひとり、皇子の手研耳命と、軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に 着かれた。そこで丹敷戸畔(たしきとべ)という女賊を誅された。その とき神が毒気を吐いて人々を萎えさせた。このため皇軍はまた振るわな かった。するとそこに、熊野の高倉下という人がいた。この人のその夜 の夢に天照大神が武甕雷神に語っていわれるのに、『葦原の中国は、ま だ乱れ騒がしい。お前が往って平らげなさい』と。武甕雷は答えて『私 が往かなくても、私が国を平らげた剣を差し向けたら、国は自ら平らぎ ましょう』といわれた。天照大神は『もっともだ』と。そこで武甕雷神 は、高倉下に語って『私の剣はふつのみたまという。今あなたの倉の中 に置こう。それをとって天孫に献上しなさい』と。高倉下は『承知しま した』と答えると目が覚めた。翌朝夢のお告げに従って、庫を開いてみ ると、果たして落ちている剣があり、庫の底板に逆さにささっていた。 それをとって天皇に差し上げた。そのときに天皇はよく眠っておられた が、にわかに目ざめていわれるのに、『私はどうしてこんなに長く眠っ たのだろう』と。 ついで毒気に当たっていた兵卒どもも、いな目ざめて起き上がった。」 つまり、高倉下の献上した、「ふつのみたま」は毒気抜きの呪いがかか っていたようです。 ところで、この高倉下命を祀っている神倉神社は、剣ではなく、「ごと びき磐」がご神体です。 なんで?? 「ごとびき」とはひきがえるのことなんだそうですが、これは形からの連 想かな? 高倉下命がひきがえると関係があった、という話は・・・聞かないです もんねぇ。 熊野速玉大社の案内板には、熊野三山主祭神が、神倉山に降臨になった、 とありましたから。 この「ごとびき磐」は、神降臨のための、磐座だったのかもしれません。 しかし、だとしたら、なぜ、その神社のご祭神が、高倉下命なんでしょ う??? 無理やり考えるならば、高倉下命は、熊野三山の神々を奉祭する神職で、 たまたま日本書紀では、神武天皇に剣を献上する役で登場しただけ。 ということかも知れません。