祭 神:加茂健豆美命 説 明:境内案内板を転記します。 「当社は、人皇五十代桓武天皇の御代、勅命により和気清磨呂公、この地 を河内の一の宮として、『賀茂の大神』を斎き祭れるがその始めなりと いう。 古き史を繙けば、祭神『賀茂の大神』は、神武天皇、国を建つるにあた り、畿内の豪族として大功をたて、山城の国を賜るや、民生の安定に貢 献、ために『賀茂御祖の大神』として奉祭さる。今の京都『下鴨神社』 これなり。 御分霊を当地に迎えるにあたり、賀茂の社家の人々多く移り住み、堂山 に三千坪の神域を開き、その中腹に広壮な社殿を造営せり。丘の下を走 井といい、今の走谷これなり。近くに清冽な御手洗川あり。社参の人々 この川にて禊し、敬神の誠を捧げしという。 しかるに約六百七十余年を経て応仁の乱起こり、惜しくも兵火にかかり 一切の財宝焼失し、今に残れるものなしと言う。されども今日、走谷に 宮の上・宮の下・大門前・堂前等の地名が残れるは、往時の隆盛を窺う に足るというべきか。 わが『加茂神社』は、これより百六十余年を経て、寛永六年に『産土神』 として再建され、氏子の年長者が『一老』と言いて神主となり、氏人が 祭員となりて春秋の祭典を執行せり。明治五年『蹉だ神社』に合祀、同 十二年、現在地に復社し今日に至る。明治三十九年、加茂の森の浄財を もって拝殿を、昭和三十九年、社務所を新築、昭和四十九年、本殿を改 築せり。境内に『御手洗・琴平』の小祀あり。 神と人相和し、神霊に仕えるはわが民族の卓越せる資質にして、わが走 谷も千百余年にわたりて、『賀茂の大神』を奉祭す。 特に『加茂の大神』は家内安全。夫婦和合。縁結びに霊験あらたかなれ ば、春秋の祭りを始め、初宮参り等などの祭りを怠りなく務め、神霊の 加護にあずからんことを。」 住 所:大阪府枚方市走谷1−17−2 電話番号: ひとこと:ご祭神の「加茂健豆美命」は、「カモタケズミのミコト」と読むのでし ょうか? 下鴨神社のご祭神とされていることを見ても、「賀茂建角身命」と同じ 神様でしょう。 この神様は、所謂、「八咫烏」。 黒い装束に身を包み、神武天皇を先導したと言われる、神様です。 さて、この神社の案内によれば、この加茂健豆美命は神武天皇から山城 の国を賜ったとあります。 また、日本書紀にはこうあります。 「また八咫烏も賞のうちにはいった。その子孫は葛野主殿県主がこれであ る。」 賞のうちに入って、その子孫が葛野主殿県の主である、というのですか ら、八咫烏が賜ったのは、「葛野主殿県」であろう、という想像がつき ます。 しかし、「葛野主殿県」とはどこにあったのでしょう? はっきりしとしたことはいえないんですが、なにしろ、「葛野郡に新し く建てられた都」を「平安京」と言う・・・なんていわれるくらいで、 平安京の辺り一帯の広い地域を指すようです。 つまり、下鴨・上賀茂神社のあるあたりも、葛野主殿県なんでしょう。 ちなみに、桂川とは、「葛野郡」を流れる川。 もともとは、「葛野川」「葛川」と言ったそうです。 この神社に、下鴨神社の神様を勧請したというのは、間違いないよう ですね。 それにしても、気になるポイントが多い案内書です。 まず、「桓武天皇の御代、勅命により和気清磨呂公、この地を河内の 一の宮として、『賀茂の大神』を斎き祭れる」 というくだり。 まず、「和気清磨呂公が一の宮として」というくだり。 この人物、宇佐八幡の託宣を受け、 「臣下が帝位についたことはなく天三日嗣は必ず皇緒をたてよ」 と奏上し、弓削道鏡の革命を阻止した人物として名高いのです。 一の宮という制度は、いつごろ始まっていつごろ確率したかはっきり とはしていないようですが、おそらく、平安初期ごろに始まり、鎌倉 時代の初めには確率していたんじゃないか、といわれているようです。 ですから、和気清磨呂公がこの地に「河内一の宮」を建てようとした 時代というのは、まだ、一の宮制度が確立しきっていなかったと考え られます。ですから、天皇の信望厚い和気清磨呂公が、「ここが一の 宮」と一早く宣言したということになります。 しかし、現在、河内一の宮は、東大阪市にある枚岡神社。 藤原氏の氏神を祀る神社として有名な神社なんです。 和気清磨呂公がまず注目されたのは、恵美押勝の乱で功績をあげたこ とでした。 恵美押勝の別名は、藤原仲麻呂。藤原氏なのです。 「日本後記」によると清麻呂の先祖は第十一代垂仁天皇の皇子鐸石別名 とされています。 つまり、彼は、天皇の血筋を引いた、由緒正しい家柄の末裔だという ことになります。 なのに、彼が一の宮にしようとしたこの加茂健豆美神社は、彼の誅し た藤原氏の勢力に負けちゃったんですね。なぜでしょうね? 和気清磨呂公は、道鏡を退ける託宣を奏上した為、称徳天皇に嫌われ、 大隈国(鹿児島県)に一旦流されてしまいます。 その時、彼は、「別部穢麻呂」と改名させられちゃいます。 姉の「広虫」は、「狭虫」 称徳天皇の無邪気さを感じますね(^^ゞ ・・・もとい。 結局、翌年、光仁天皇の即位と同時に、清麿呂公は許され、京に戻りま すが、1年ほど京を不在にしてたわけですね。 その間に、一の宮の地位を取られちゃったのかも・・・しれません? この辺りの、「一の宮争奪戦」については、いろいろな想像ができます が、歴史に疎い私の手に余っちゃいます。 そこで、もう一つ、気になるポイント。 この、和気清磨呂公。 実は、もう一つ、大きな功績を残しています。 それは、桓武天皇に、山城の国葛野郡に平安京を作ることを薦めたこ となのです・・・。 都を建築しようとした土地にある、神社のご祭神を、南南西にある、 この地、に分霊したのは、なぜでしょう? ・・・ええええ〜〜っと、南南西ですよね?南西かな? 南西だとしたら、裏鬼門になるんですが・・・。 この神社のご祭神、「加茂健豆美命」は、先導の神様です。 先導の神様を裏鬼門に祀るのはなんだかしっくりこない。 それよりも、素直に、「先導のために、一番前に」祀ったのだと考え るほうが、納得できます。 平安京遷都の後、和気清磨呂公は、加茂健豆美命を先頭に、どこへ行 こうとしていたのでしょうか。 平安京から南南西の方角・・・。 当時、藤原氏の本拠地であった、和泉があるのですが、考えすぎでし ょうか? しかし、なんにせよ、彼の企ては失敗に終わったのでしょう。 この後続く平安時代、藤原道長は、 「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることのなしと思へば」 と詠ったのですから。