hitokoto

烏森神社

karasumori





  祭  神:倉稲魂命 天鈿女命 瓊々杵尊
  説  明:栞から抜書きします。
      「地名の由来
       烏森の地は、古くこのあたりが武蔵国桜田村と呼ばれていた
       時代には、江戸湾の砂浜で、一帯は松林であった。そのため
       当時この地帯は、『枯州の森』あるいは『空州の森』と言わ
       れていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけ
       ていたため、後には『烏の森』とも呼ばれるようになった。
       それが烏森という名の起こりである(烏は熊野の神使として
       有名なように、神鳥であった)。
       烏森神社にちなんで、明治以降昭和七年までは町名として使
       われていたが、その後現地名の新橋に改められた。今では国
       鉄新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。

       神社の創始
       平安時代の天慶三年(西暦940年)に、東国で平将門が乱
       を起こした時、むかで退治の説話で有名な鎮守将軍藤原秀郷
      (俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐
       がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに
       東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請し
       ようとしたところ、夢に白狐が現れて、神烏の群がる所が霊
       地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のご
       とく烏が森に群がっていたので、そこに社頭を造営した。そ
       れが烏森稲荷の起こりである。
      『神勅を朝日に告げる烏森』
       その後、秀郷の八代目の子孫にあたる下川辺行平も、当社に
       祈願して弓道の奥義を究め、お礼として社殿を修理し、また
       鰐口を奉納した。その表には、『元暦元甲辰正月吉日、下川
       辺司行平建立』と書かれてある。

       神社の隆昌
       当社が隆昌に赴いたのは、徳川家康が江戸に幕府を開いてか
       らである。当地は早くから御府内に編入され、武家屋敷と町
       屋が設けられたため、一時は参拝もままならぬ状態であった
       が、たまたま明暦三年(1657年)に有名な振袖火事が起
       こった。この時江戸市中はもちろん、当社の周辺も大方焼け
       てしまった。ところが烏森稲荷社だけは、不思議にも類焼を
       免れたのである。これは神威の致すところと考えられ、以後
       当社に対する屋敷神としての信仰は日に日に厚くなっていっ
       た。江戸の地誌にも芝愛宕下久保町の烏森稲荷としてしばし
       ば登場している。『祠曹雑職』によれば、百余の稲荷番附の
       中で、烏森稲荷は東の関脇に位置づけられている。

       御神徳
       当社は、明治以後は烏森神社と称しているが、それ以前は烏
       森稲荷として、霊験の厚い稲荷の一つであった。
       江戸時代の古謡に『伊勢屋、稲荷に、犬の糞』というのがあ
       る。これは数の多いことを言ったものだが、なぜ稲荷信仰が
       このように江戸で流行したのか、それは東寺の守護神たる稲
       荷の霊験があらたかだったからであり、福徳の神として町人
       達にもてはやされたからである。」
  住  所:東京都港区新橋二丁目15−5
  電話番号:03−3591−7865
  ひとこと:東京は初めてですし、いろいろ面白そうなエピソードがあり
       ますね。

       まず、東の平将門公と、西の俵藤太という印象があったのに、
       俵藤太ゆかりの神社が東京にあるというのは意外でした。

       それから、白狐と烏という取り合わせ。
       白と黒、狐と烏というあまり合い入れそうにない取り合わせ
       が興味を引きます。

       また、『伊勢屋、稲荷に、犬の糞』が江戸の町に溢れていた
       というところも調べてみたらすごく面白そうです。

       でも、やはりここは、「振袖火事」でしょう。

       振袖火事は、有名ですから、名前を聞いたことはあるでしょ
       う。
       さて、この火事の原因をご存知ですか?

       実は、2つの逸話があるのです。

       有名なのは、八百屋お七でしょう。
       八百屋お七は、火事で一時お寺に避難していたんですが、そ
       の時、寺の小姓であった吉三と恋仲になってしまうんですね。
       寺の小姓さんや小坊主さんって、江戸時代には、アイドル的
       存在だったといいますから、吉三も、若い女の子にきゃーき
       ゃー言われてたのかも知れません。
       お七との関係も「ゆきずり」だった可能性もありますね。

       家が再建され、吉三との仲が引き裂かれてしまうと、お七は
       吉三に会いたくて、会いたくてし方なくなります。

       思うに、お七はかなり楽天家だったんでしょう。

      「あ、そっか。前と同じ状況になりゃいいんじゃん。火事が起
       きればいいわけじゃん。私って、あったまいい〜♪」
       と大罪である火付けをしちゃうんですね〜。

       そして、これを「振袖火事」と言う、と。

       この時お七16歳。
       彼女を裁いた、南町奉行甲斐庄喜右衛門正親が、お七に、
      「そなたはまだ15歳であったな?」
       と確かめたところ、彼女は、
      「いえ、16歳です」
       と答えています。

       これは、大罪の火付けも、15歳までなら、死刑にならず遠
       島と天和三年に定められたからで、お奉行様は、小火の放火
       犯を、しかも年若い少女を死罪にするのに忍びなかったのだ
       と言われています。

       つまり、お七が出したのは小火なのです。とても「振袖の大
       火」と呼ばれるようなものではありません。

       お七の起こした火事を「振袖火事」と呼ぶのは、井原西鶴の
      「好色五人女」から来ているのかも知れません。。

       この中で、お七は、避難先(吉三郎と出会った)吉祥寺で、
       寒さしのぎにと、寺からに寄進された「比翼の紋」の小袖を
       借り受けるんです。

      「比翼」とは、夫婦鳥が翼を並べている姿を表したもので、
      「比翼の紋」とは、夫婦が互いの実家の家紋を並べたものを言
       います。
       つまり仲睦まじさを表す紋で、「仲睦まじさ」と、「寺への
       寄進(つまり形見なわけです)」という死への暗示がここに
       あります。

       まぁ、それなら、「小袖火事」になりそうなもんですけど。
       江戸には、「吉三郎の遺族から寄進されたお七の振袖」が所
       蔵されているお寺などがありまして。
       お七が振袖姿のまま(成人もせず、嫁ぐこともなく)処刑さ
       れた、ということから、「振袖」になったのかも知れません。

       ま、これがまかり間違って、大火事になってたら、お七は恋
       に狂った憐れな女性とは言われなかったでしょう。

       阿部定にしても、鼠小僧次郎吉にしても、石川五右衛門にし
       ても。
       庶民は自分の腹が痛くなかったから。
       だから、彼等をヒーロー(ヒロイン)と見たのだと思います。

       犯罪者から、悲劇のヒロインに格上げされたのは、江戸の火
       消しさん達のお蔭ですね。
       せめて、あの世では、そのことを意識してほしいもんです。

       さて、このお七が出した火事が「振袖火事」ではないのは、
       これでわかりました。
       お七が出した天和三年(西暦1683年)より遡ること26
       年、明暦三年に起こったのが本当の「振袖の大火」なのです。

       このお話は、明暦一年一月十六日、浅草諏訪町大増屋十右衛
       門の娘・おきくが病死したことから始まります。
       享年16歳。死因は恋煩い。(一説では、この恋煩いの相手
       が、お七と同じく寺の小姓さんだったとか)
       彼女が大事にしえいた紫ちりめんの振袖は、形見として本郷
       丸山町本妙寺に預けられるのですが、あまり美しい振袖だっ
       たからか、寺の小坊主が持ち出し、ある古着屋に売ってしま
       ったのです。       

       そして、明暦二年一月十六日、本郷元町鞠屋吉兵衛の娘・お
       花が急病に倒れ、亡くなります。
       享年16歳。
       彼女は、古着屋から、おきくの振袖を買い受けていました。
       この振袖もまた、本妙寺に預けられ、同じ経緯で古着屋に渡
       ります。
       
       明けて、明暦三年一月十六日、中橋の質屋伊勢屋五兵衛の娘
       ・梅乃急死。
       享年16歳。
       彼女もまた、おきくの振袖を着ていたのです。
       
       梅乃の葬儀で、一周忌にあたるお花の両親と、三周忌にあた
       るおきくの両親が、偶然、梅乃の形見として、棺の上に、件
       の振袖が懸けられれていることに気付きます。

       そして、この振袖の持ち主の娘が三人も、同じ日に同じ年で
       急死していることを知ったのです。

       本妙寺では、捨て置けぬ事態である、と判断します。
       お焚き上げにより供養しよう、と、振袖に火をかけた途端、
       振袖は風もないのに巻き上がり、炎を背負ったまま、本堂の
       屋根へ落下したのです。

       この火事による死者は十万人を超えると言います。

       が、お七の場合と違うのは、この本妙寺になんのお咎めもな
       く、却って、触頭という役職につかされる、など、異例の出
       世をしていることらしく、そこから、「本妙寺が火元」なの
       ではなく、「火元を本妙寺が引き受けた」のだ、とも言われ
       ています。

      「嘘」だからこそ、誠らしく、このような不気味な逸話を付け
       加えたのかも知れません。
      「恋煩いの女性が原因」「その時女性は16歳」「振袖」とい
       う所がお七の事件と似ているのも、振袖火事の原因を創作す
       る時に、お七火事を参考にしたからかも知れません。
       その方が人の口に上りやすいですしね。

       ま、そんなわけで、この「振袖火事」は、「色」と「怪」両
       面で有名なんですね。勿論火事の規模でも。

       寺の欲得に絡んだ火事で、神社が焼け残るってのは、ちょっ
       と痛快です。

       裏で仏様と神様の談合があったんだったりして(^^ゞ

home 神社のトップに戻ります back