祭 神:八十天万御魂神 素盞鳴命 三筒男大神 息気長足姫命 説 明:栞を引用します。 「御神徳 当神社奉斎地は、昔百舌鳥耳原又は石津原と称し、摂津住吉郡・河内 丹治比郡・和泉大鳥郡の三国の境界なる故に、三国丘と称し、この三 国の堺で何処の国にも属さない、又方位の無い清地であると言う考え 方に依りその境内の御土と菰の葉にて作られた粽(ちまき)は、悪い 方位を祓うという信仰を以って方災除の神として広く知られている。 御由緒 崇神天皇の御代、物部大母呂隅足尼が、この地に素戔鳴命をお祀りに なり、神功皇后が三韓より御凱旋になった時、住吉大神の御神教によ り、神武天皇の丹生川上御斎祷の故事に倣はせられて、この地におい て親しく天神地祇を祀り、皇軍の方災除を祈り、忍熊王等の賊兵を平 らげられた。次いで住吉大神を、今の住吉の地に御鎮座の際、菰の葉 に埴土を包み粽として奉り、方違の祈祷をされた霊地である。その後 応神天皇の時代に、素戔鳴命・住吉大神・神功皇后を合祀し、方違宮 と称せられた。 古くより勅願の神社で、維新前までは毎年禁裏より御撫物の奉納があ り、当社より御神符に菰の葉の粽、及び真飴を添えて献上されていた。 以上のようなことから、当社は古くから方災除の神として知られ、崇 敬者は全国にひろがり普請、転宅、旅行等の場合には当社の神符及び 粽を受け、或いは方除祈祷の修祓を望む方が、すこぶる多く現在に至 っている」 住 所:大阪府堺市北三国ケ丘町2丁目2−1 電話番号:0722−32−1216 ひとこと:三省堂の「大辞林」によりますと、方違えとは、 「陰陽道の説により平安時代以降行われた風習。 外出の際、目的地が禁忌の方角に当たる場合、前夜に別の方角に行っ て泊まり、方角を変えてから出発したこと。また、作事などが禁忌の 方角に当たる場合に、いったん他に宿泊してその忌を他所に移したり した。院政期に最も盛んに行われた。 かたいみ。かたたがい」 と説明されています。 源氏物語などで、聞いたことがあるでしょう? まぁ、「源氏」を見ていると、実際には、「他家の女性を物色するた めの口実」に見えますが・・・(^^ゞ さて、話は変って、日本書紀に出てくる「方違」の話です。 栞にもありますように、神功皇后が凱旋の時、謀反の意志を持って待 ち受けている、忍熊王らを避けるため、難波へ向かおうとしますが、 船がぐるぐる回って進まなかったという事件があったんですね。 そこで、神功皇后は、「武庫の港」へ戻って占い、皇后を守護してく ださった神々を、天照大神の荒魂は廣田国に、稚日女尊は生田長峡国 に、というようにそれぞれ鎮座頂くと、船は進んだとあるんです。 この神社の説明によれば、神功皇后は、 この「どの国にも属さない地」で、「天神地祇に祈った」ので、行軍 が順調に進み、謀反者・忍熊王を破ったとあります。 この「方災除け祈祷」と、武庫の港での占いは、全く無関係ではない と感じます。 同時期にいろんな場所でいろんな神様に祈祷した、ってことの一端な んでしょうが、それにしても、この神社は、「素戔鳴尊をお祀りした 神社」なんです。 このすぐ側には、やはり神功皇后が、住吉神の別名として塩土翁を祀 った「開口神社」があります。 なぜ、三韓進攻守護に名前の挙がらない素戔鳴尊のおられる社で祈祷 されたのでしょうか? 「方のない場所だから」だけでは説明できないと思うのです。 「誓約」の時生まれた、素戔鳴尊神の御子とされる三女神と、天照大神 の御子とされる五男神を合わせた八神を、陰陽道で「八方」を守護す る神々と同一視されたのは、もちろん陰陽道が日本で発達してからで しょうね? としたら、素戔鳴尊をお祀りする神社で「方角除け」の祈祷をしたの は単なる偶然なんでしょうか? それとも・・・。 素戔鳴尊はイザナギ神の「鼻」から生まれています。 「鼻」ということから、「鼻息」を連想し、「鼻息」から「風」を連想 するため、素戔鳴尊を風の神様と見ることもあるようです。 風の神様を「方角」の神様とするのは、なんとなくわかるような気も します。 特に、神功皇后は「船」ででかけたわけですから、「風の神様」に、 「正しい方角に吹いてくださいね」 とお祈りするのは、理に叶ってます。 それだけかな? そうじゃないかな?