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香取神宮

katori





  祭  神:経津主神
  説  明:香取神宮小史によりますと、
      「神徳
       空を圧する矛杉の森、ここ佐原市香取の亀甲山に鎮座するわが香取
       神宮は、経津主神をお祀りしています。またの御名は伊波比主命。
       我が国将帥の始祖、国初の元勲、国家鎮護の神、本朝鎮守の棟梁と
       称えられてきました。
       御歴代の朝廷には、特に御崇敬あらせられ、時の武将もまた篤く信
       仰を寄せ、祭儀祭秩の礼を厳かにしてきました。維新の始め、浪華
       に行幸された時にも御親祭がありました。
       毎年一月一日早朝四方拝には、東方に向かはせられ香取・鹿島両神
       宮に御拝されます。

       功徳
       昔、天照大御神が、日嗣の皇子天忍穂耳尊を蘆原の瑞穂国(日本国
       の旧号)の君主として天降しますにあたり、荒ぶる神々あまた争い、
       麻の如く乱れていた。天忍穂耳尊はその乱れたる中津国を見給い、
       天照大御神に報告されると、大御神は、八百万神に、いかにすべき
       か相談なされた。神々は、天穂日命がすぐれた神である。邪神を伐
       ちとらしに遣わし給えと申された。大御神は先ず天穂日命に命じて
       遣わされた。ところが、この神は、あだなす大己貴命に侫り媚びて
       三年もの間復命しなかった。これではならじと、大御神は再び神々
       とはかって、天国玉神の子、天稚彦を和平の使者として遣わされた。
       しかし、この天稚彦もまた忠誠の心なく、蘆原の中津国に到り着い
       て、この国の国神顕国玉神の女、下照媛を妻として、自ら国を乗っ
       取ろうとして大御神に復命せず、遂には、高津鳥の禍にかかって亡
       くなってしまった。
       こうした度々の蘆原中津国平定の効ならぬ末に、更に天祖天照大御
       神は、天安河原に群臣の八百万神を集め、一体誰を派遣すべきか慎
       重に相談させた。神々は口を揃えて、この度は、絶対に経津主神こ
       そふさわしいと申し上げた。経津主神は、磐裂根裂神の子磐筒男・
       磐筒女神の子である。この経津主神こそわが香取大神である。この
       時、豈唯に経津主神独り丈夫にして、吾は丈夫に非ざむや、と語気
       荒く、進んで天石窟に住む神稜威雄走神の子武甕槌神が申し出られ
       たので、そこで共に派遣されることになった。
       経津主・武甕槌の二神は、皇祖のご神勅を戴いて葦原中津国に天降
       り、出雲国の五十田狭の小汀に着いて、十握剣を抜いて倒に突きた
       て、武威を示され、大己貴に対して、皇祖天照大御神の仰せらるる
       には、この葦原中津国は、我が子孫の治めしめす国であるから、皇
       子尊を天降し、この地に君臨せしめ給わむと、我等二神を遣わし、
       国内を掃い静めなされる。さて、汝はこの大御神の意向を承り、皇
       子尊を迎え奉るや否や、と問いただされた。
       時に、大己貴命の答えて言うには、天神の勅、いとも恐し、私はど
       うしてご命令に叛きましょうや、自分は全く異議はありませぬが、
       我が子に事代主というのがいる。これに問い確かめてお答えしまし
       ょう、と。
       この時、事代主命は、三穂岬に魚釣に出ていたので、稲背脛なる者
       を急ぎ遣わして、事の次第を詳しく申させた。ここに事代主命はこ
       の旨を承り、今我が父は皇祖天神の神勅に随い、此の国をお避けに
       なった。どうして私はこの父の意に背きましょうか、と逆手を拍っ
       て服従を誓い、蒼柴籬を造って、その中に身を隠した。この状況を
       父の大己貴も聞き、経津主・武甕槌二神に、我が子はこの通り既に
       身を退きました。私とても、どうして帰順うせぬことがありましょ
       うや、と、平国の廣矛を二神に奉り、もしも反抗する者があらば、
       私が先にこの国を経営した時に杖いたこの廣矛を以って誅したまえ、
       とひっそりと国の隅に身を退いたのであった(なお、建御雷神と諏
       訪の建御名方神の勇壮な力競べのことも古事記には伝えられている)。
       かくして二神は、この葦原中津国の隅々まで行き巡り、順う神は挙
       げ用い、順わぬ邪神は坂の尾に追い伏せ、ことごとく従わせ、国土
       平定の功を全く竟えて、皇祖天神の御許に復命された(日本書紀概
       要)。
       時に天照大御神、勅して仰せられるには、まさに吾が児を天降しま
       つるべしと、まさに天降りまさむとする程に、皇孫天津彦彦火瓊々
       杵尊が生まれられ、此の皇孫を以って代えて天降し給うこととなっ
       た。即ち皇孫尊に、八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣、三種の宝物を賜
       い、中臣の上祖天児屋命・忌部の上祖太玉命・猿女の上祖天鈿女命・
       鏡作の上祖石凝姥命・玉作の上祖玉屋命、すべて五部の神を配え侍
       らしめた。皇孫に勅して、『豊葦原の千五百秋の瑞穂国は、是れ吾
       が子孫の王たるべき地なり、宜しく爾皇孫就きて治らせ、行矣、寶
       作の隆えまさむこと、当に天壌と窮無かるべし』と。
       又宝鏡を授け、『吾が児、この宝鏡を視まさむこと当に吾を視るが
       如くすべし、與に床を同じくし、殿を共にして斎の鏡となすべし』
       と仰せられ、多くの神々をお供になされて、天の磐座を脱し離れ、
       天の八重雲を排し分け、筑紫の日向の高千穂の奇触之峯に天降りま
       して中津国に君臨なされた。かくして皇統連綿、万世一系の基を建
       てさせられたのは、経津主・武甕槌の二神の武威剣徳を以て、平和
       のうちに邪神を掃攘し、皇業を輔翼し奉れる大いなる功績に依るも
       のと讃えられる。

       神系
       伊弉諾尊の御子、火神軻遇突智神から出でて、磐裂根裂神の子、磐
       筒男磐筒女神の子、即ち、経津主神である。
       経津主神の御兄に、天苗加命あり、香取連の祖先で、摂社又見神社
       に祭られている。また若御児神社ともいう。

       鎮座
       神宮は遠き神代の昔より、今の地(下総国香取)に鎮座されてきた
       ことは日本書紀に『此神今在東国香取之地也』とあることでも知ら
       れる。また古語拾遺に『経津主神云々、今下総国香取神是也』と見
       え、延喜式神名帳には『下総国香取郡一座、香取神宮(名神大月 
       次新嘗)』とある。
       古えは、伊勢の皇大神宮の外に特に神宮と尊称されたのは、下総国
       香取神宮と常陸国鹿島神宮の二社のみであった。
       これは延喜式神名帳に依って明白である。これを以てしても、香取・
       鹿島の両神宮に対する朝廷の御崇敬が、往昔より如何に厚かりしか
       が知られる。香取神宮の所在地下総地方の各郡は、古えは神郡と称
       したという。

       宮柱創立及び造営
       宮柱の御創立は、神武天皇の御代と伝える。正和五年(西暦131
       6年の香取古文書によって明らかである。謹みて案ずれば、経津主・
       武甕槌二柱の大神は、先ず荒振神達を駆除して一旦は皇祖天神に復
       命され、その子孫の神々が、東国を平定して海路より進み、今の銚
       子港口の辺より軍船を乗り入れて、一は香取に、一は鹿島に根拠地
       を定め、更に東夷を征討し、其の根拠地に祖神経津主神を祭り香取
       神宮、祖神武甕槌神を祭って鹿島神宮と称した。
       当神宮の御造営の事がはじめて書物に記されたのは、弘仁三年(西
       暦812年)六月に『住吉・香取・鹿島三社は、二十年を隔てて皆
       改造れ』と云い(日本後紀)、又元慶六年(882年)十二月九日
       の勅に『下総国の神税五千八百五十五把を、正一位勲一等香取神宮
       雑舎を造る料に充てよ』とある(文徳貫録)。延喜式に『凡諸国の
       神社は、破に随いて修理せよ、但し、摂津国住吉・下総国香取・常
       陸国鹿島等の神社正殿は廿年に一度改造れ、その料は神税を用いし
       めよ、若し神税無くば正税を充てよ』とある。右大臣大中臣清麻呂
       五代の孫、従八位下中臣数並香取神宮使であったことが、中臣系図
       にある。香取こぶんしょ造営年記に、保延三年(1137年)、遷
       宮大風の為に破損、巡年を待たずに造畢、中間十八ケ年なりとある
       ので、其前の造営は、保安元年に遷宮があったと思われる。」
       とあります。旧漢字と旧仮名遣いで書かれていたので、全て換えま
       した。間違いはない・・・と思うのですが、あったらすいません。
  住  所:千葉県佐原市香取1697
  電話番号:0478−57−3211
  ひとこと:レイ・ラインってご存知ですか?
       これはイギリスのことなんですが、つまり古代の祭祀跡が、すべて
       同じ「レイ」を語尾にもつ地名に、しかも一直線に並んで配置され
       ているんです。その「直線」が、「レイ・ライン」
      「ley」とはイギリスの古語で「光」のことなんだとも言われてい
       ます。

       さて、日本の場合です。
       出雲大社・熱田神宮・鹿島神宮はほぼ一直線に並んでいて、しかも、
       この線は、日本を東西に横切る線の中で一番長い、と言うんです。
       
       香取神宮が関わるラインは、鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の、大
       きな直角二等辺三角形が有名でしょう。

       その他にも、伊勢神宮と大江山の元伊勢を結ぶと、その延長線上に
       出雲大社が来る、など、いろんな線が発見されています。

       しかし、まぁ、この「国譲り」に関わった神々を祀っているのは、
       鹿島・香取神宮、出雲・諏訪大社の相反する二つの勢力ですね。

       また、見方を換えて、三種の神器を祀っている神社、即ち、八咫鏡
       を御神体とする伊勢神宮・草薙剣を御神体とする熱田神宮・八尺瓊
       曲玉を保管している皇居(???)の位置を見ても、何か面白い発
       見があるかも知れません。

       私は、歴史も苦手ですが地理はもっと苦手なので、地図帳を買って
       きてから挑みます。

       いや、なんでこんな話しを始めたかと言いますとですね(^^ゞ
      「草薙」と、「香取」と、「稲垣」とをSMAPに揃えたジャニーズ
       の陰謀説なんてのをぶちあげてみようか、と(^ー^;;;
       草薙って言えば、もう草薙の剣でしょう?
       香取神宮の祭神は経津主命、これは、日本書紀の神武紀で、神武の
       臣下・高倉下に授けられた神剣の名前でもあるのです。
       でもって、櫛田姫を八重を作って娶った素盞鳴尊が八俣大蛇を
       退治した剣は、布都斯魂。
       全て剣だから、これに関する神社は、順に、熱田神宮・香取神宮・
       石上神宮・・・とこじつけても、なんか面白そうだし、
       フツ(布津or経津)・フツシ(布都斯)・フル(布留)の三つの神
       剣を祀っている石上神宮にこじつけようと思えば、あと、草薙の剣
       とフルを結び付ければ、なんとかなったんですが、木村くんと中居
       くんがどうしてもこじつけられず、失敗です。くすん。

       それに、香取神宮は、そんな戯言いわなくても、面白い発見がたく
       さんある神社ですから、真面目に行きましょう。

       さて、まじめに香取神宮です。(←始めからこうしとけって?)

       やはり、この「香取神宮小史」にも、香取神宮独自の伝説は載せら
       れておらず、日本書紀本文・一書(第一)・一書(第二)からの、
       抜粋が説明として載せられているだけです。

       風土記でさえ、記紀と矛盾する記述があるのです。香取神宮の独自
       の伝承があれば、ところどころ、いや、かなり記紀と矛盾している
       んじゃないか、と思うのですが、それは全く記されていません。

       しかし、しかし、この抜粋を読んでいてふと思ったんです。
       これは、日本書紀のところどころを抜書きした体裁を取っているけ
       れど、この内容は旧事本紀の記述に近いんじゃないのかな?と。

       日本書紀の原文を持っていないのがなんとも手抜きになるのですが、
       葦原中国の平定までの記述は、日本書紀本文に依っています。
       しかし、三種の神器を賜わったこと、五部の神達を配したのは、日
       本書紀一書(第一)の内容です。
       そして、天照大神が、鏡を自分と同じように扱え、と言ったという
       のは、日本書紀一書(第二)の内容なのです。

       また、古事記では建御名方と建御雷の争いがあった、と、わざわざ
       記載されていますね。

       なぜそんなにまどろっこしいことをするのでしょうか?

       この神宮の祭神は経津主神なのですから、三種の神器や、五部の神・
       八咫鏡の扱い・建御名方のことを別の書物からひいてきてまで説明
       する必要はなかったんじゃないかな?と感じませんか?

       でも、この内容は全て「先代旧事本紀」に載っている内容なのです。
       もし、この「小史」作者が、日本書紀・古事記を使って、できるだ
       け、先代旧事本紀の内容に近い記述をしようと心を砕いたんだとし
       たら?

       香取神宮の祭神は、経津主命。
       経津主命は、石上神宮の祭神であることからもわかるように、物部
       との関わりが深いと思われる神様です。

       しかも、別名が「伊波比主命」。
       日本書紀や旧事紀では、経津主神・武甕槌神が葦原中国を平定する
       に先だって、天甕星を退治するために、祭りを行った時の斎王が、
      「斎の大人」つまり「いわいのうし」とされています。

      「伊波比主命」つまり「イワイヌシ」と、「斎の大人」つまり「イワ
       イノウシ」。
       そう、この「斎の大人」は、香取神宮に鎮座とされています。
       つまり、この「斎王」こそが、香取神宮祭神・経津主神の別名なの
       です。

       そうすると、経津主神は、武勲だけでなく、シャーマンとしても、
       優れていたということがわかるのです。

       武勲と呪い。
       武士(もののふ)の語源となったといわれ、「魂振り」などの呪術
       を司ってきた、物部との関係を感じるでしょう?

       いや、もともと、香取神宮と物部氏というのは、いろんな研究者が
       おっしゃっていることのようです。

       物部氏の神様、経津主命を祀る香取神宮の秘する、社伝が、先代旧
       事本紀とほぼ同じ内容だったとしたら。

       なんて考えると、面白いけど、ちょっと気が遠くなりますね。

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