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葛木御縣神社

katsuragimiagata





  祭  神:劔根命  (合祀)天津日高日子番能瓊瓊杵命
  説  明:境内看板などがなく、平成祭礼データにも、由緒は記載されていません。
       ただ、名称に、「御縣」とつきますから、葛木の御縣を鎮守する神様の
       お社なのでしょう。

       ちなみに、「延喜式祝詞」の祈年祭・月次祭に登場する「御縣神社」は、
       高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布」
      「御縣神社」は数ありますが、この神社の由緒の古さを思わせます。
  住  所:奈良県北葛城郡新庄町葛木68
  電話番号:06−6661−6243
  ひとこと:さて、劔根命について調べてみましょう。
       あまり聞きなれない神名だったのですが、初代葛城国造であることが、
       日本書紀に記されています。

       ただ、神武天皇橿原即位の時、国造に定められた顔ぶれを見ていますと、
       なんだか不思議なのです。

       とりあえず、その部分を転載しましょう。

      「神武二年二月二日、天皇は論功行将を行われた。道臣命は宅地を賜り、
       築坂邑に居らしめられ特に目をかけられた。また大来目を畝傍山の西、
       川辺の地に居らしめられた。今来目邑と呼ぶのはこれがそのいわれで
       ある。
       椎根津彦を倭国造とした。また弟猾に猛田邑を与えられた。それで猛田
       の県主という。これは宇陀の主水部の先祖である。弟磯城−名は黒速を
       磯城の県主とされた。また剣根を葛城国造とした。また八咫烏も賞のう
       ちにはいった。その子孫は葛野主殿県主がこれである」

       道臣命は、神武天皇に付き従い、数々の武勲をあげ、天皇の橿原宮即位
       にあたっては、まじない(諷歌・倒語)により、もろもろの災いを退け
       た、勲功者ですから、まず論功賞を与えられるに相応しいでしょう。

       大来目は、日本書紀には登場しませんが、古事記では、兄猾(宇迦斯)
       を討ち、神武天皇に後に正妻となる伊須気余理比売を引き合わせた人物
       です。

       椎根津彦・八咫烏は、前者は九州から、後者は熊野から、案内役として、
       天皇軍を先導しました。

       そして、弟猾は、実兄である兄猾を、弟磯城は同じく実兄である兄磯城
       を裏切って、神武天皇に恭順した「功労者」です。

       ただ、剣根命は・・・どこでどう活躍したのか、さっぱりわからないの
       です。

       剣根命はいったいどんな功績により、葛城の御縣を拝領したのでしょう
       か?

       神社新報社刊「日本神名辞典」によれば、
      「剣根命(つるぎねのみこと)
       高魂命五世の裔孫。事蹟不詳(姓氏録)。」
       と説明されています。

       高魂命とはあまり聞きなれない名前ですが、高皇産霊命を「高御魂命」
       と表記することもあるようですから、高皇産霊命の別名である可能性は
       あるでしょうね。

       高皇産霊命の子孫だから、功績がなくても、領地を配分された?
       そんなこともないでしょう。
       高皇産霊命は、子沢山の神様ですから、6代もたてば、数え切れない程
       の子孫がいるはずです。

       ひとつ、考えられるのは、

       剣根命の功績は大きなものであった。
       でも。
       その功績は、神武天皇が無敵で人徳のある英雄である、というイメージ
       を壊すものであった。

       ということです。

       剣根命は、賀茂氏の祖であるとされます。
       そして、一般に、「賀茂大神」と呼ばれるのは、「阿治須岐詫彦根命」。
       天孫族に(征服されて)出雲を譲り渡した、大物主命の御子なのです。
       葛城地帯で崇拝される神様でもあります。

      「(天孫族に対して)公の歴史に明記できないような功績をあげた人物の
       子孫が奉祭する神様」
       と、
      「天孫族が征服した、と公の歴史が謳っている氏族の神様」

       が、同じ系列に神様である、と考えると、不思議ではありませんか?

       そして、その上で、剣根命が天孫族に示した功績を想像してみてくださ
       い。

       一つは、剣根命が自分の属する出雲族を裏切って・・・そう、弟磯城や、
       弟猾のように・・・、天孫族に寝返った。
       という想像ができます。

       でも、それならば、弟磯城や、弟猾の功績だけ明記してあるのは矛盾し
       ますね。

       そこで、もう少し考えてみましょう。

       剣根命は、出雲と天孫族との間を取り持つ役目をした人物である。
       でも、その努力は結ばず、戦争になり、出雲族は敗退した。
       勝利した天孫族は、そこまで自分達のために尽力してくれた剣根命まで
       誅するのは忍びず、とりたてて、葛城国造とした。

       この方が自然です。

       さて、ここで思い出すのが、出雲国譲りの使者は誰だったか?というこ
       とです。

       一人目は、天孫族の長である、天照大神の息子、天穂日命。
       この神様は、出雲出身の「土師氏」の遠祖です。
       つまり、出雲族が敗れた後も、出雲に居続けたことになりますね。
       彼は、天孫族を裏切って、大物主にこびへつらったのですが、同族のよ
       しみで、罪を免れたのでしょう。

       そして、二人目は、天稚彦。
       この神様は、大物主におもねって、帰ってこず、天孫族にはむかった為、
       殺されてしまいます。全く、不公平な話ですよね。

       ただし、この神様は「復活した」という説があります。

       天稚彦の葬式に、友人がやってきます。
       その友人は、天稚彦にそっくりで、遺族は「稚彦が生き返った!」と、
       大喜びするのです。
       その友達・・・つまり、天稚彦の復活後の名前は、
      「阿治須岐詫彦根命」

       そう。剣根命の子孫が「賀茂」つまり、自分達の氏族の名前を冠に、
      「大神」と読んだ神様なのです。

       そう考えると、出雲と天孫族との戦いの仲介をしたのは、やはり、天
       稚彦だったのではないか、と思います。
       記紀に描かれている天稚彦の「死」は、葛城賀茂の大神であるところ
       の、「阿治須岐詫彦根命」として生まれ変わるための、通過儀礼だっ
       たのではないでしょうか?

       つまり、実際は、天孫族から、交渉役に抜擢された天稚彦が、その役
       目に失敗。
       ただ、それまでの尽力が認められ、葛城を支配することを認められた。

       ただ、そのためには、天稚彦を名乗らせておくのは、何か不都合があ
       る。
       だから、
       一旦殺して、葛城賀茂の大神という名前で復活させた、
       同時に、「剣根命」という名前で葛城御縣を賜った。
       と考えられないでしょうか?

       とはいえ、天稚彦は、出雲族ではありません。
       日本書紀によれば、天稚彦は、「天国玉神火」の息子であるとされて
       います。
       天国玉神火という神様がどういう神様なのかは、不詳ですが、とりあ
       えず、天孫族の一員とされているようです。

       しかし、国譲りの談判などという大事な場面に、名の知られていない
       神の御子を遣わすでしょうか?

       名前の知られていない御子をわざわざ選んで、国譲りの交渉に行かせ
       る理由。
       それは、スパイとして潜り込む目的があったから・・・と考えられま
       せんか?

       もちろんこれは、ただの想像の寄せ集めにすぎませんが、そう考える
       と、なんとなく、すっきりしませんか?

       そう考えると、この、天稚彦の「秘さねばならない」功績は、出雲国
       侵入&諜報活動ということになるわけで(^^ゞ
       非常に正々堂々としない。

       う〜〜〜ん。すっきりしないですね??

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