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河内国魂神社

kawachikunitama





  祭  神:大己貴命 少彦名命 菅原道眞公
  説  明:御由緒書を転載します。
      「当河内国魂神社の創始は古来伊勢神宮開社の頃(皇紀657年、西暦前三年・約二千年
       前)であると言伝えられていますが其の正確な年号は詳ではありません。
       然し旧摂津国莵原郡にあっては、西宮神社、保久良神社と当社の三社が、生田神社、長
       田神社等と同様、延喜式神祇部に載っており、千数十年前既に由緒ある名社として崇敬
       されていたことが想像出来ますが、その後の沿革は定かではありません。
       御祭神の大己貴命(大国主命)は少彦名命と相協力して国土経営に当られ、その功特に
       著しく、又慈愛の心篤く、福徳円満、縁結びの神として、尚酒造、医薬の祖神として七
       徳兼備と称えられ広く尊崇されています。一説には摂津国造である凡河内忌寸の祖、天
       御影命を祀っていたのであろうと言われますが其の間の消息も永い年代を経た現在詳し
       くはわかりません。
       降って延喜年間、菅原道真公が筑紫の太宰府へ謫遷の途次、御影の浜に船を留め、ひそ
       かに別れを惜しんで此の地まで下向された師父尊意僧正延暦寺第十三代法主)と当社頭
       に於いて餞別せられた時の応対が極めて慇懃丁寧で、此の様をかいま見た人達は其の徳
       を慕って菅公の歿後、其の霊を勧請合祀して爾後俗に五毛天神と称し現在に至っていま
       す。此の菅公は勧学の神、又文墨の神として広く神徳を讃えられていることは皆様ご存
       じの通りで、進学、入学期には参拝者が多くなります。
       右の如く当社は元此の地方の大氏神として深く崇敬せられ、現在は五毛、畑原、上野の
       三地区が氏子でありますが、昔は稗田、鍛治屋、山田、篠原も氏子となっていました。」
  住  所:兵庫県神戸市灘区国玉通3−6−5
  電話番号:078−861−0587
  ひとこと:凡河内忌寸の祖、天御影命・・・。
       始めて聞くお名前ですが、「御影」って、なんて美しいお名前(#^.^#)

      「旧事紀 巻第三 天神本紀」に登場する神様のようです。
       饒速日尊天降りの時防衛となった三十二柱の神のうちの一人に数えられています。

       さて、古事記・日本書紀・旧事紀などで、「天降り」した神様は、とりあえず、二柱
       登場します。

       上記、饒速日尊と、瓊々杵尊です。
       この二方は、「兄弟」となってますね。

       当然、お二人とも、地に下る時、たくさんのおつきが付いてきています。

       饒速日尊は、三十二柱の防衛、五柱の部人、五柱の部造、二十五柱の天物部部人。
       瓊々杵尊は、五柱の伴緒。

       ちなみに、瓊々杵尊につきそった、五伴緒は、天児屋根命・天太玉命 ・天宇受売命・
       石凝戸売命・玉祖命。
       となっています。
       それぞれの神様の特技は、
       天児屋命は、祝詞。
       天太玉命も、祝詞。
       天宇受売命は、踊り。
       石凝戸売命は、鏡造り。
       玉祖命は、玉造り。

       あれ?
       何か気づきませんか?
       そう、この面々は、天照大神の天岩戸隠れの時に活躍した面々です。

      「手柄たてた神に、ご褒美に旅行させてあげましょう」
       というような、緊張感のなさを感じないでもない。

       その反面、饒速日尊のおつきの神々は、それぞれ、どこかの氏族の「祖」であるとい
       うことが記されてはいますが、どういった基準でこの面子が選ばれたのか、想像がつ
       きません。

      「どこかの氏族の祖になる神々が選ばれたんだよ」?
       いや〜〜〜〜〜、それは・・・。
       因果関係が反対ですよね。

       あくまでも、
       原因が「饒速日尊のお供として天降りしたから」
       で、
       結果が「ひとつの氏族の祖となった」
       ですよね?

       つまり、この三十二柱の神々には、「天岩戸隠れで手柄をたてたから」などという、
       ある意味、呑気な人選ではない、ということです。
       本当の意味で「精鋭」だったのではないでしょうか。

       しかも、瓊々杵尊のお供のものの六倍以上。

       こんなことから、饒速日尊の天降りは、かなりの危険を覚悟したものである、という
       印象を受けます。

       この違いはどこから来るのか?

       饒速日尊の時代、「地」は、「神類未踏」だったんじゃないでしょうか。
       そして、瓊々杵尊の時代には、もう、先人達が、地に辿り着き、開拓し始めていたと。

      「僕の前に道はない。僕の後に道はできる by高村光太郎」
       ですね。

       つまり、瓊々杵尊の「天降り」は、武御雷神と経津主命他、饒速日尊などが決死の覚
       悟で切り開いた道を、悠々と後から降りていっただけ・・・という気が・・・。
       しかも、高皇産霊神に、真床覆衾という、なんだか暖かそうな衣服まで着せられてま
       す。

      「ちゃぁんと、皆が下調べしてくれたからね〜。ただまっすぐ歩いていけば大丈夫でち
       ゅよ〜、道間違えないように、道案内を5人つけますからね〜、風邪ひかないように、
       あったか〜くちて行きまちょ〜ね〜」

       ・・・う〜〜〜ん、過保護だ。

       しかも、この瓊々杵尊、途中で、大男の猿田彦が待ち伏せしていることを知るや、女
       である、「天宇受売命」に、
      「おまえ、美人だからさ〜、色仕掛けで話つけてきてよ」
       と「お願い」します。

       んで、地に降りてきたら、美女、木花開耶姫に一目惚れして結婚しますが、姉の岩長
       姫は、
      「あんな醜い女、義理でも貰いたくないよ〜」
       と、付き返す。
       この時代の礼儀などはよく知りませんが、しっつれ〜〜〜〜〜。

       んで、恋女房の開耶姫が一晩で妊娠すると、
      「一晩で妊娠するなんて、変じゃないの〜?御前、浮気したろっ!!」
       と、駄々こねる。

       か弱い美女ながら、旦那よりずっと凛々しい奥さんが、
      「んじゃ、わかりました。火の中で出産します。無事出産したら、あなたの子だと認めて
       いただきましょう」
       と捨てゼリフ吐いた上で、無事出産したを見るや、
      「いや、俺はおまえのこと信じてたんだけどさ。他のみんなが疑うじゃん?だから、俺が
       率先して、疑ってみせたんだよ〜」
       と言い訳。

       うわ〜〜〜〜〜・・・。
       いやな男〜〜〜!!!

       ・・・が、ちょっと待ってください。

       私達が見てきた、この、瓊々杵尊像、日本書紀・古事記などを鵜呑みにした場合の、
       瓊々杵尊です。

       もしかしたら、瓊々杵尊は、
      「全くの捏造か、もしくは、事実を悪意を持って湾曲している!!」
       と抗議しておられるかもしれません。
       夫に冷たいとされている木花開耶姫も、
      「マスコミって、怖いですわ〜あ」
       と嘆いておられるかも(笑)

       だから、この記紀の記述でわかることは、ただ、
       記紀の編纂者が、瓊々杵尊にあまり良い感情を持ってなかった、ということだけでし
       ょう。

       しかし。
       記紀に登場する神にはモデルがあったと言われます。
       例えば、
       神功皇后は元明天皇のこと。
       武内宿禰は藤原不比等公のこと。
       なんて噂があります。

       そして、
       天照大神は持統天皇だと言われます。
       としたら、瓊々杵尊は?
       少なくとも、日本書紀の神代の時代を編纂していた時期、瓊々杵尊は草壁皇子のこと
       を暗喩したものであった可能性が高い、かも。

       この部分の編纂をした担当者がどなただったかは知りませんが。
       多分、草壁皇子とは仲が悪かった。

       そういうことじゃないでしょうか??

       瓊々杵尊は、とんだとばっちりですね(笑)

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