祭 神:天孫瓊々杵尊 天児屋根命 枳根命 源満仲 (配祀)天照大神 伊邪那岐神 伊邪那美神 豐受比賣神 速素盞嗚尊 中筒男神 綿津見神 大山祇神 宇賀御魂神 火産靈神 保食神 大歳神 大國主命 猿田彦神 金山彦神 應神天皇 小童命 八衢比賣神 櫛御氣野命 菅原道眞 源滿政 説 明:境内案内板を引用します。 「当社は、旧来枳根庄内にあって、能勢町森上の地に鎮座し、『延喜式神名帳』能 勢郡の条には『岐尼神社』と見える。祭神は『天孫瓊々杵尊』、中臣氏の祖神で ある『天児屋根命』、大名草彦命の子『枳根命』と『源満仲』で、『岐尼・枳根・ 枳禰。杵宮』、或いは『杵大明神』と称していた。 『瓊々杵尊』といえば、天孫降臨の神話にある神であるが、ここにも天孫降臨の説 話がある、すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に 杵を渡し、荒菰を敷いて迎えたという。『杵』、『杵尊』のひびきは社名の起因 と考えられる。 また、天降った丘を今も『天神山』と呼んでいる。 社記によると、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また 将軍家代々の御祈願所であったという、また祭神に加わった『源満仲』について は、多田の地に入部以来家臣の多くが当地に入り、開発治世にあたったその君恩 を子孫に伝えるためといわれている。 当社で特筆すべきは、主神である『瓊々杵尊』の座像背後に、『奉勧請瓊々杵大 明神至元卯九月吉日』の墨書である。『至元』という年号は中国元代のもので、 我が国では南北朝時代の延元四年(南朝1339)、暦応二年(北朝1339) に当たり、在銘神像として稀に見る貴重な神像である。また『延文二年(135 7)藤原輔女 清原 大般若経 奉納』と古記にある。 当社の北側背後には、中世の山城が並び築かれ、時に天文十八年(1549)九 月十七日、山下城主塩川伯耆守と、それを迎え撃つ、枳根城主能勢小重郎との、 『岐尼の宮合戦』、ついで元亀二年(1571)十二月二日、織田信澄の乱入など、 度重なる社殿の炎上によって古書類が焼失してしまった。しかし、戦乱のほとぼ りがようやく去った慶長十年(1605)九月、太田和泉守が社殿の再建をなし とがえ、その後享保十二年(1727)にも修復、この時の修復費用は『銀五貫 八百八拾八刃壱分六厘、氏子=千九百四十八人』とあり、これが今に残る社殿で ある。 神宮寺であった白雲山神宮寺は、かつて十坊を数えたが、天正年間(1573〜 91)の戦乱期に多くが断絶し、かろうじて成就坊のみが残り、ありし坊舎の面 影を明治維新まで伝えたという。なかでも、江戸時代も後期になった天保八年 (1837)七月に当社の社庭は能勢騒動打毀しの発起点となり、そのときに各村 村にひびき渡った早鐘は、この成就坊の釣鐘であった。 明治維新による神仏分離、続いて一村一社の神社統一により、同四十年十か村の 氏神が岐尼神社に合祀された。また大正期にはいって、当社の社司を尋ねた御歌 所寄人の阪正臣氏の歌碑が木陰の中に建っている。また、『歌枕名寄』に『枳根 社』とあり、次の和歌が出ている。 『おのつから 神の心に ならわしの きねか宮居の 月そさやけき』」 住 所:大阪府豊能郡能勢町森上103番地−3 電話番号: ひとこと:この神社のご祭神「枳根命」に注目してみましょう。 なにしろ、この枳根命が、この地に降臨された神様なのですから。 しかし、「臼の上に杵を渡し、荒菰を敷いて」とは、どういう状況でしょうか? 臼と杵は一対のものですから、その二つが揃うのはよいとして・・・。 臼の上に杵を渡すことになんの意味があるのでしょう? 臼も杵も武器ではありません。 例えば、握手は、右手同士でしますよね? 握手の時に左手を出すと、 「喧嘩売っとんのか?」 となります。 これは、右手は武器(主にピストルを指すと思います)を持つ手ですから、その 手を相手の手に預ける・・・つまり、相手と握手することにより・・・、「敵意 はありませんよ」と証明しているわけですね。 ですから、左手を出すということは、「右手が武器を握ってるぞよ」と表明して いる、と取られかねないわけです。 が、臼も杵も武器ではない(いや、もちろん、杵は十分凶器になり得ますが)。 これを、「普段使用する形以外の姿で飾る」ことが、「無抵抗の表明」になりそ うではありませんよね。 では、臼や杵は、どういう時に使われるか? 私達が、一番よく目にするのは、餅つきの時でしょうか。 その他、お米の籾を取ったりするのも、この臼&杵で行われていたようです。 つまり、臼と杵は、食事に関係が深いのですね。 それを表に出して、枳根命は、歓迎されました。つまり、 「どうぞ、ご存分にお食べください。お疲れでしたでしょう?」 と言う歓迎のされ方をしたということではないでしょうか。 ということは。 枳根命は、外からいきなりやってきて、攻め込んできた外敵ではなかった、と思 えませんか? 枳根命は侵略者ではなかった。 むしろ、 先着した一族が、後からやってくる、自分達の尊敬する人物のために用意をして 歓迎する・・・そのような状況が見えませんか? もしくは、何か素晴らしい技術を持った人々が、その技術を伝えるために、友好 的に到来したのかも。 としたら、どんな技術の伝承者だったでしょうね? 臼と杵でお迎えされる技術ならば・・・。 新しい農作物を持ってやってきたのかもしれません。 さて、 古来、他の村からやってくるのはどのような人々だったのでしょうか? 侵略者・遊芸者・放浪者など。 文化を伝道することだけを目的に各地を流離った人々もいたかもしれません。 でも、侵略者も、遊芸者も、放浪者も、ここまで歓迎してお迎えされるとは考え づらいですね。 としたら、やはり、枳根命は、後発の偉大な人物か、文化を全国行脚した偉大な 人物だったのかもしれません。 また、「枳根命」とは、俗称かもしれません。 もしかしたら、枳根命とは、実は、私たちがよく知っている、神話上の人物かも。 もし、そうだとしたら、誰でしょうか? それは想像するしかありません。 ただ、想像できるのは、人々に愛される人柄の人物だったということでしょう。