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熊野本宮大社

kumanohongu





  祭  神:家津御子大神(素戔鳴尊)伊邪那美神(夫須美大神)事解之男神
       伊邪那岐神 速玉大神 天照大神 忍穂耳命 瓊々杵命
       彦穂々出見命 うが草葺不合尊 軻遇突智命 埴山姫命 
       弥都波能売神 稚産霊命 
  説  明:栞をそのまま引用します。長いので覚悟してくださいね。
      「 御由緒と御神徳
       紀の国音無川のほとりに、鎮まります、熊野本宮大社(旧官幣大社熊野
       坐神社)は熊野三山(本宮、新宮、那智)の首座として熊野信仰の総本
       宮と仰がれて居ります。
       御祭神は熊野坐大神と申し上げ、熊野に鎮まります大神と言う広大な意
       味でありまして、熊野国は現在和歌山県、三重県の両県にまたがり東、
       西、南、北牟婁郡の四郡を言うのであります。
       本社には十四柱の神が御鎮座になりますが、主祭神は家津御子大神(熊
       野加武呂乃命)でありまして、大神の御事蹟は、古史に依れば、はじめ
       海原を治められましたが、出雲の国島根の簸の川上に降り、八岐大蛇を
       退治され、天叢雲剣を得られ、天照大神に献上され、国土の経営はもと
       より、遠く大陸をも治められたとあります。紀伊続風土記に『大神大御
       身の御毛を抜いて種々の木を生じ給い、其の八十木種の播生れる山を熊
       野とも木野とも言えるより、熊野奇霊御木野命(くまのくしみけぬのみ
       こと・木を生成化育される意味にて家津御子大神と同意)と称え奉るべ
       し』とあります。植林を全国に奨め、木の国の名、熊野の称はこゝより
       おこったのであります。植林の目的に就いては、主に建築材、特に造船
       の技術を教えられ、貿易を開かれたので、海外発展の思想の根元が古代
       にあった訳であります。『音無川の水上に立たせ給うは舟玉十二社大明
       神』と唄われ、舟玉大神とも仰がれるわけもこゝにあるのであります。
       誓約の神として、天照大神と天安河を挟み誓約をされ、古事記に
      <建速須佐之男命天照大神白干我心清明故。我所生之子得手弱女。因之言
       者、自我勝云而於勝佐備。>
       とありまして、正邪を正すとして崇められ、後世烏文字を用いた熊野牛
       王神符が誓約ごとに広く用いられ、これが有名な起請文であります。
       本地垂迹説が行われてから、家津御子大神を阿弥陀如来として熊野大権
       現と称え、現世、後世二世の守護神として夫婦結の信仰が厚く、死人も
       白衣をつけて第一に熊野詣をすると云われ、熊野縁起に『大日本六十余
       州衆生我許参詣者除貧窮与富貴現世安穏後生生善所之証誠阿弥陀如来熊
       野大権現也』と神言にあり、富貴神寿命神として厚い信仰がある。奈良
       朝の初期から熊野権現として信仰され、本社は上、中、下社の三社より
       なり、故に熊野三所権現と言われ、十二殿に御祭神が鎮座ましたところ
       から熊野十二社権現とも仰がれました。
       熊野大神の神使は、八咫烏として有名ですが、神武天皇御東征の砌、
       野烏が大和へ無事先導した縁起から交通の守護神として熱烈な信仰があ
       り、成務天皇の御代饒速日尊の五世孫大阿斗足尼、社人温泉を発見以後、
       斎屋(湯屋)を建て、熊野本宮の潔斎場となる之が湯峰温泉であり、全
       国の温泉場には湯野権現として温泉守護神とあがめられています。
       古より男子と生まれたものは、先ず熊野へ参詣して初めて一丈夫になる
       と言われ、出世、家門繁栄の守護神として尊崇されている。有名な平清
       盛もその一人として、平家物語に、『平家かように繁昌せられけるも、
       熊野権現の御利生とぞきこえし、其故は古へ清盛公、いまだ安芸守たり
       し時、伊勢の海より船にて熊野へまいられけるに大きなる鱸の舟におど
       入りたりけるを、先達申けるは、是は権現の御利生なり。いそぎまいる
       べし。と申しければ清盛のたまいけるは昔周の武王の舟にこそ白魚は踊
       り入りたるなれ、是吉事なり。とて、さばかり十戒をたもちて、精進潔
       斎の道なれども、調味して家の子、侍どもにくわせられけり。其故にや
       吉事のみうちつゞいて太政大臣まできわめ給えり。子孫の官途も竜の雲
       に上がるよりは猶すみやかなり。九代の先しをこえ給うこそ目出度けれ。』
       と物語って居ります。
       第一殿に鎮まります夫須美大神(伊邪那美大神)は、家津御子大神の母
       神にて、伊邪那岐大神と倶に国土を修理固成し夫婦の途を興して神人万
       物を育成し、人倫の大本を誨えて郡品の祖として崇められて居ります。
       当社御縁起に家津御子大神告給わく、如此吾前を斎い奉らば吾母の御前
       をも能く祝い奉るべしと。是に於いて此の由朝廷に奏し、詔命を受けて
       有馬村花窟(三重県熊野市有馬村)に鎮まります伊邪那美命を遷座奉り
       又種々の神宝をも迎え本宮に鎮まりますとある。
       第二殿に鎮まります速玉大神、伊邪那岐大神、黄泉の国より帰ります時、
       族負けじと誓い給うに生まれました神にて、生成発展を司る神と崇敬さ
       れている。その他の神々も縁由あり鎮まりますことは云うまでもないが、
       最初は家津御子大神、夫須美大神、速玉大神、三神であると伝えられて
       います。
        御神階と社格に就いて
       平安時代、清和天皇の貞観元年正月、従五位下熊野坐大神に、従五位上
       を、ついで五月更に従二位を授けられた。醍醐天皇延喜の制には熊野三
       山のうち唯一の名神大社に列し、祈年の国幣に預かられ、延喜七年十月
       宇多上皇本社に行幸あるや正二位に陞叙せられ、朱雀天皇天慶三年二月
       には、承平年中西国海賊平定の御奉幣あり正一位の極位に達せられた。
       降って明治初年、神祇官直支配社となり、明治四年五月、新たに官国幣
       社の制により国幣中社に、大正四年十一月官幣大社に列せられました。
       昭和二十一年大東亜戦の終戦と共に官制は廃され、一宗教法人となりま
       した。
        神代から現代までの歴史
       熊野坐大神の御鎮座の年代は明白ではないが、神武天皇御東征以前には
       既に御鎮座になったと云われており、第十代崇神天皇六五年に社殿が創
       建されたと『神社縁起』『帝王編年記』『皇年代略記』等に初めて記載
       されています。熊野三山の一つ新宮は景行天皇五十八年に社殿造営され
       たと『皇年代略記』『延喜式神名帳』に、那智大社は、仁徳天皇の御代
       鎮座と『熊野略記』『古今皇代図』に記載され、上古の造営は詳らかで
       はないが、中古以後は諸国に造営料地を寄進せられ、造営奉行は三公も
       しくは将軍又は執権国守等が之に当たり、国家的大事業として執り行わ
       れました。最近の造営は光格天皇享和二年、本社、第一殿、第二殿、同
       文化七年第四殿造営将軍徳川家斎国守権中納言源朝臣治宝卿、奉行享和
       の年は安藤順輔、久野近江守輝純、文化の年は水野飛騨守忠奇、渡辺主
       水正載鋼にて御造営がすゝめられたのが現在の社殿であります。
       熊野大神を斎き祀ったのは、熊野国造家ですが、この氏族は天照大神の
       孫、饒速日尊(またの名を天火明命)の子孫で物部氏の祖にあたります。
       饒速日尊の孫が味饒田命(うましにぎたのみこと=熊野連)に当たり、
       さらに二世を経て大阿斗足尼(おおあとのすくね)が成務天皇御代に国
       造を賜っており爾来この子孫が代々大神に奉仕し、近く江戸時代の末に
       及んだのであります。」
  住  所:和歌山県東牟婁郡本宮町本宮
  電話番号:0735−42−0009
  ひとこと:熊野大社については、いろんな難しい説をいろんな方が書いておられる
       ので、この際、難しいことは避けます。

       ・・・というより、難しいことはわからないんですけどね(^^ゞ
       ただ、分かるのは、実際参拝してみれば、熊野がなぜそれほど人を惹き
       つけてきたか、実感できる、ということです。
       太古、ここに君臨した、家津御子の神様が、たっぷりとした器の神様で
       あったことが実感できます。
       是非、自分の感覚でお確かめください。

       さて、栞に、「これが有名な起請文であります。」とありますが、起請、
       文ってご存知ですか?

       まず月並みに、「起請文」を大辞林で引いてみましょう。

      「起請文(きしょうもん)
       起請の内容を記した文書。起請誓紙。誓紙。誓詞。」

       ふむ。
       それじゃ、「起請」は?

      「起請
       (1)物事を企て、上申してその実行を上級官司に請うこと。また、そ
       の文書。
       (2)神仏に誓いを立て、それにそむかぬことを宣言すること。またそ
       の旨を記した文書。
       (3)男女が互いにとりかわす、固い約束。また、その旨を記した文書。」

      「有名な」
       とされているのは、この(3)じゃないでしょうか。
       というのはですね。
      「熊野誓紙」は、川柳に多く詠み込まれているのです。

       例えば、
      「熊野では、今日も烏が、二・三死に」

       熊野誓紙に誓った男女の仲を裏切った場合には、熊野の神遣いである、
       烏が一羽落ちてしまう、という伝承があるんですね。

       ということで、この川柳の意は、
      「今日もどこかで、永遠の愛を誓い合った男女が別れてる」
       なんてぇ具合なんです。

       といいましても、

      「あなたなしでは私、一日も生きていけませんわ」
      「僕もだよ。君がいなければこの世は闇だ」
      「それじゃぁ、起請文書きましょう」
      「そうしましょ」

       な〜〜んて誓い合った男女の仲も往々にしてさっさと醒めちゃうもんだ
       ぜ・・・ってなわけじゃあ、ありません。

       つまりですね。
       この「起請文」を取り交わす男女とは、女郎と客の間がほとんどなんで
       すね。

       だ・か・ら、女郎の方では、はなっから、この起請文の内容を守るつも
       りなんかないわけですよ。

       あぁ、かわいそうな烏(T_T)

       現代の「起請文」であるところの婚姻届も、簡単に破約される状況なよ
       うで・・・(^^ゞ 

      「今日もまた 戸籍にばってん 2・3つき」

       てな具合でしょうか? 
       う〜〜ん、2・3では、すんでないかぁ・・・(^^ゞ     

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