祭 神:饒速日命 野間姫命 説 明:境内看板によりますと、 「当社は、第三十五代推古天皇十三年(西暦605年)即ち、今よ り約1400年前、勅命に依り大和の布留神廟(今の石上神宮) から、布留道を通り奉遷したのである。故に当社を布留宮とも申。 昔は官幣社の待遇を受けていた。東能勢歌垣田尻吉川の総社でも あった。大祭には国より遣幣使も派遣されていた有名神社である。 その証として第六十代醍醐天皇の御代(西暦927年)式内社と して延喜式の中に記してある。 ご祭神は饒速日命(布留大明神)で、神霊代は命が顔に懸けされ ていた勾玉である。 命は神武天皇の創業の際に、子・可美真手命と共に兇族長髄彦を 討って大業を翼貰をし給うた軍神であり、又、天降りの際、天神 (高見産土神)より賜りし十種の神宝を以って諸病を平癒し、諸 難を避け給う御神徳を兼ね備えられた神でもある。」 とあります。 住 所:大阪府豊能郡能勢町地黄291番地 電話番号: ひとこと:この神社は、有無社とも呼ばれていたそうです。 野間の大欅のあたりにあった蟻無神社を合祀したからだそうです。 この蟻無神社の境内の砂は蟻巻きなどの野菜の虫害である蟻巻き の除去に役立ったとされているとか。 ただし、この蟻無神社の祭神は、紀貫之なのだそうです。 しかし、紀貫之という人は蟻と縁が深い。 能の「蟻通」は、紀貫之が馬を止めずに蟻通明神の社を通りがか ったところ、大雨が降り出して、動けなくなるが、蟻通明神の化 身である翁に歌を詠み、歌のよさに、蟻通明神の怒りが解け、無 事通り過ぎることができた、という話。 なんで、蟻通明神と縁の深い人物が「蟻無」神社に祀られるのか? ちょっと合点がゆきませんね。 野間姫については、愛知県今治市にある「野間神社」の祭神に同 じ名前が見え、この神社の祭神・若弥尾命の妻となっています。 ・・・が、無関係でしょうね。 推古天皇が布留大神を勧請する前、この土地はどのような部族の 支配を受けていたのでしょうか? この社伝によれば、布留大明神=饒速日命としていますね。 石上神宮の由緒には、 「天璽十種瑞宝の起死回生の霊力」を「布留御魂大神」称えた、と なっています。 つまり、饒速日命ではなくて、饒速日命の持ち物の、そのまた霊 力。なんですが、野間神社は、それが即ち饒速日命である、と、 そう言うことになるわけですね。ふむふむ。 日本書紀の一書によれば、素盞鳴尊が八俣の大蛇を退治した剣が 石上神宮に祭られている刀である。となっています。 石上神宮によると、その剣は、布都斯魂大神として、祀っている 神様にあたるようです。 そして、布留が須佐之男命の子供である、としている神社もある ようです。 もし、布留が須佐之男の御子であれば、饒速日命は須佐之男の息 子ということにもなるんですが。 須佐之男は、天神ですからね。 饒速日命が天神の息子であることしかわかっていないのなら、須 佐之男の息子であっても、おかしくはないはずです。 ただ、根拠はどこだ??と調べていると、なな・なんと? 批評社の先代旧事本紀の巻末にある「出雲・日向・大和一族関係 系図」は、布都御魂から始まり、その息子が、布都斯御魂、又の 名を・・・「素佐之男尊」!!! そして、素佐之男尊が奇稲田姫との間にもうけたのが、布留御魂 であるとなっています。 そして、その又の名を、饒速日命・大歳尊という。 と。 物部の始めは、素盞鳴尊だというわけですね。 ということは、瓊々杵尊の先祖天照大神との関係はどうなるか、 もちろん、姉弟じゃないですね。 旧事本紀、それ、信じていいの?