祭 神:大奈母知 少比古奈命 説 明:栞によりますと、 「御鎮座 当神社の御創立は文徳実録の記す処によれば、斉衡三年(西暦856年) といわれて居ります。 文徳実録斉衡三年十二月戊戌(二十九日)の條に、『常陸国上言鹿島郡 大洗磯前有神新降云々』、とその状を事細かに記してあります。 全国に名社、大社といわれる神社が数多くありますが、当社の様に御創 立の年代の明確な御社は稀であります。 御祭神と御神徳 御祭神は文徳実録に『大奈母知、少比古奈命』とありまして、大奈母知 は即ち大国主命にして、日本書紀には素戔鳴尊の五世の孫と云い、古事 記にはその御子神としてあります。 大国主命、大物主命、顕国玉神、葦原醜男命、八代戈神など数多の御名 があり常に少彦名命と二柱相並び御出現になり、御神徳を顕されて居り ます。 少彦名命は高皇産霊神の御子神と記されてあります。 大国主命は国土を開拓し、殖産興業に力を尽くし人々の生活の基礎を築 き、少彦名命と共に山野に薬草を求めて、病難に苦しむ人々を治療し又 禁厭(まじない)の法を定めて、民の災禍を防ぐ等、国土の経営と民生 の安定を計り、徳望高く人々は深くその恩恵を蒙って居りました。 御由緒 文徳実録の記録によれば、斉衡三年常陸国鹿島郡大洗の里に御出現にな り給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。 『我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この国を造り常世の国に去ったが、東 国の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰って来た』と仰せられました。 当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、国内が乱れて居りま した。大国主神はこうした混乱を鎮め平和な国土を築く為に降臨された のです。 即ち、大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大 国主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。 朝廷は国司の上奏に基づき翌天安元年八月七日官社に列せられ、次いで 十月十五日には『大洗磯前薬師菩薩名神』の称号を賜りました。 当時国司の上奏から八ヶ月で此の待遇に預かるという事は破格のことで ありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事ができます。 延喜の制当社を明神大社に列せられ東国の大社として祀田千石を領し、 祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以 前の御本殿格子等からも察せられます。 残念なことに永禄中、小田氏治の兵乱に際し、その難を蒙り、御社殿以 下の諸建築物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。 水戸藩主徳川光圀公は由緒正しき名社の荒廃を見るに忍びず、元禄三年 御造営の工を起こし、次いで綱條公に至り、本殿、拝殿、神門に至るま で建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。 爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し、幕末に至りました。 現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲 ぶに足る文化財として貴重なものです。 明治新政府が、神社制度を定めらるゝや、明治七年九月県社に指定せら れ、明治十八年四月国幣中社に列せられましたが大東亜戦争終息を機に 神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人と してのみその存続を容認せられました。 神社が国家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当 社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔 より永遠の未来にわたり国家と共に栄えて行くことでしょう」 とあります。 住 所:茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890 電話番号:029−267−2673 ひとこと:大洗ビーチから徒歩ですぐ。坂を上りきったところ。 ビーチを見下ろす立地にあるこの神社のご祭神は、海から到来した、と いう話もあるようです。 やっぱり、サーフボードに乗ってこられたんでしょうか? (ナイナイ)。 「日本の神々」によれば、この神社の創建は、 「嘉祥元年(848年)那賀国造を祭祀氏族としていた鹿島神宮が、『春 日風鹿島社』に変質したのを怒った那賀国造(於保磐城臣)や陸奥の鹿 島社の神官たちが関を閉鎖し、鹿島神宮の奉幣使が陸奥国に入るのを拒 否した、という事件の数年後」 にあたり、この、大洗磯前神社の祭神は、本来、鹿島に祀られていた神 様なのではないか、と、推理されています。 だとしたら、「一度去った」大己貴命と、少彦名命が、再度来訪した、 という大洗磯前神社の社伝は、「鹿島から去って、大洗へ再来した」と いう意味にもとれちゃいますね。 ここ、大洗の海岸は、黒い砂浜です。 まさに、「大黒様」と後世(?)呼ばれるようになる、大己貴に相応し いと思われる海岸でした。 さてさて、現代の私達は、 「異界からの訪問(おとない)」と聞けば、 「すわ、宇宙人か、モンスターか、未来人かっ??」と思いますよね。 電車の中でフランス語が聞こえてきても、びっくりしませんしね。 でも、西暦848年ごろの日本は、まだ、海は、淵からザーザーと水が こぼれていて、その上に四匹の象がいて亀を支えていて、その亀の上に 大地が乗っている、と考えられていましたから(うそ、嘘ですよ。これ は、古代インドの世界観ですからねっ)、海の向こうから来訪するモノ は、全て、私達が「宇宙人」や、「モンスター」や、「未来人」に対し て感じるような畏怖の念を抱いたんじゃないでしょうか。 ということは、この年、海の向こう、異国から、この大洗の地に、誰か がやってきた、と単純に考えることもできるかも。 世界に目を向けてみましょう。 とはいっても、歴史が大の苦手だった私のことですので、 「こんな大事なことが抜けてるよっ!!」と言うことも多々あるでしょう。 お許しください。 また、潮の流れなんかを習う、地理は歴史より苦手だったので、 「無理ありすぎっ!」だとしても、お許しを。 さて、GOOGLEで「848年」で検索してみましょう。 お。 敦煌の支配者が、漢民族張氏に代わったようですね。 この時の逃亡者が、なんらかの経典を持って、日本へ渡来したとしたら どうでしょう。 この時、敦煌は日本より爛熟した文化を保持していたでしょうから、そ んな文化を白い袋に込めて(?)渡来した人たちは、まさに「大己貴命」 に見えたかもしれません。 でも、茨城の浜に辿り着くとしたら、世界地図を見る限り、パプアニュ −ギニア、ミクロネシア、フィジーなどの南の島からのルートが考えら れます。 パプアニューギニアに関していえば、モンゴロイドを祖先とするといわ れています。 諸島の民である、パプアニューギニア人が、高度な船の技術を持ってい て、日本に渡ってきた、と想像するのは、難しくありませんが、同じモ ンゴロイドで、姿かたちでは、9世紀の日本人をそれほど驚かせなかっ たであろうと思われます。 としたら、何かすごい技術や文明を持ってきたと想像するのは楽しいで すね。 どんなものでしょうか? 技術のことを考えるには、私はあまりにも知識がないのですが、一つ、 想像することがあります。 南の島の工芸でよく見かける、木彫りのお面です。 私は結構ああいうのが好きで、購入したりもするんですが、家族には、 評判悪かったですねぇ(^^ゞ 夜、トイレに起き出した母親が、「んぎゃ」と叫んだ場合、たいがい 犯人は、このお面だったりしました。 もし、9世紀に大洗の浜に辿り着いたパプアニューギニア人がそのよ うなお面をかぶっていたとしたら。 神様だ、と人々が思うのも無理はないかも知れません。 それにしても、栞によれば、この時代、この茨城のあたりでは、地震 が頻発していたとのこと。 もし、お面をかぶった異国人=おとなう神様説があたってるとしたら、 この地域の人々は、不安な時に異形の人が海から現れたのに、 「悪い予兆じゃ」とおびえずに、 「救いの神様じゃ〜〜♪」と歓喜したことになりますね。 ん〜〜、楽観的すぎ? 本当のところは、わかりません。 わかりませんが、年号がはっきり残っているこの神社の縁起。 この年に「何か」があったのは、多分間違いないと思います。