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大甕倭文神社

omika





  祭  神:武葉槌命
  説  明:ご由緒を転載します。
      「仰大甕の地は当社の御演技に甕星香々背男と称する屈強なる悪神が占拠していた所で
       あったために称する地名であると伝えられております。当地は阿武隈山系の最南端に
       位置し、東は渺茫たる太平洋に臨み久慈川の河口を天然の良港とした久慈浜の後背地
       として古くから開かれ、南高野の貝塚・甕の原古墳群など歴史的な遺跡が数多く残っ
       ております。また此から海岸道が開かれ、古代における交通の起点として、奥州へ通
       ずる街道の要衝を占めておりました。
       今も大甕山の東端の釜坂、即ち可良麿坂付近には中丸屋敷という所があり、天平の頃
       防人として筑紫の国に赴いた倭文部可良麿は、倭文神武葉槌命の末裔として此の地に
       住んでいたと伝えられております。『万葉集』の巻の二十の防人の歌の中に可良麿の
       歌がある。
        足柄のみ坂たまはり顧みず吾は越え行く 
         荒し男も立しや憚る不破の関越えて吾は行く
          馬の蹄筑紫の先に留り居りて吾は斉はむ
           諸は幸くとも申す帰り来までに
       中世の南北朝の動乱期には、南朝方の北畠顕家に率いられた奥州の軍勢と北朝方に組
       していた太田の佐竹貞義との間で壮絶な戦いが繰り広げられた。今に伝わる甕の原の
       戦がそれである。やがて江戸時代に入り陸前浜街道も整備され、奥州の大名の参勤交
       代をはじめ人々の往来も頻繁になり、社頭の茶店も大変に繁昌したとのことでありま
       す。また久慈浜をはじめとする近郷の人々は無論の事、街道を往来する旅人などの参
       拝者の数も多くなりました。元禄の頃には水戸藩において大日本史の編纂が始まり、
       当社の由緒の重大なる事が認められることとなり、藩主自らの度々の社参を受けた記
       録をはじめ、奥州の大名の参勤交代の折には大名の社参並に奉納金を受けた記録など
       があります。明治以降は交通機関の発達が著しく、街道筋もさびれてしまいましたが、
       大正の初期頃までは神社の前に人力車の元締があり、水戸方面から来る人力車の客を
       ここで乗り換えさせて、日立・高萩方面に運んだそうである。現在は境内の中を国道
       六号線が通るようになり昔に比べると大部変わりはしましたが、子孫に受け継がれて
       きた鎮守の森は椎の大樹をはじめ数多くの植物が生息し、かつての自然林の面影を残
       しております。

       御祭神の御事
       創祀年代は不詳でありますが、当社の由緒は古く神代にまでもさかのぼることができ
       ます。御祭神武葉槌命は神代の昔に皇室の祖先であり、我々日本民族の祖神として伊
       勢の神宮にお祭りされる天照大御神の御命令により、鹿島神宮の御祭神武甕槌命と供
       にこの常陸国を平定され、日本民族を一つにまとめあげた日本建国の大功神として仰
       がれております。その御神威・御神徳につしては、我が国最古の歴史書である『日本
       書紀』の一節にも見ることができますが、『大甕倭文縁起』には概ね次のように伝え
       られております。天祖天照大御神が天孫瓊瓊岐尊を豊葦原中津国に降臨させるに当た
       り、鹿島・香取の二神は葦原中津国の国津神・荒ぶる神々を鎮撫あるいは掃蕩する任
       を負わされておりました。武神として誉の高い二神は国津神等の国攘り、荒ぶる神々
       の掃蕩、更には国中の草木石類に至るまで平定いたしましたが、まだ常陸国に悪神が
       おり、名を天津甕星、またの名を天香々背男といい、大甕山上に陣取り東国地方の陸
       地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。さすがの鹿島・香取の神もこの
       勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。その時にこの武神である二神に代
       って甕星香々背男討伐の大任を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました。
       命は武神としてもさることながら、智恵の加味としてことに優れており、(我国にお
       いて織物を始めとする組織的な産業を最初に起こされた神であります)命の智恵を駆
       使した巧みな戦略の前に甕星香々背男の一大勢力も敢え無い最後を遂げることになり、
       その様は今に様々な伝説となり伝えられております。その一つに武葉槌命が大甕山に
       て甕星香々背男の変じたる巨石を蹴ったところ、その一つは海中に落ちて今に伝わる
       おんねさま、または神磯と呼ばれる磯になり、あとの石は、石神・石塚・石井に飛ん
       だと伝えられております。また現在の大甕神社の神域を成しております宿魂石は、甕
       星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝えられております。斯くて、甕星香々背
       男の勢力を掃蕩された武葉槌命は、此の大甕の地に留まり命の優れた智恵の産物であ
       る製塩の術・織物の術をはじめ、様々な生活の術を常陸地方は無論のこと、東日本の
       一帯に広められ人々の生活の向上に貢献されたのであります。今に、武葉槌命はおだ
       て山、即ち美しい山と人々から敬愛の念を持って呼ばれる大甕山上に葬られてると伝
       えられております。」
  住  所:茨城県日立市大みか町6−16−1
  電話番号:0294−52−2047
  ひとこと:このご本殿が建っている岩山(写真でわかりますか?)全体が、宿魂石と呼ばれるそ
       うです。
       つまり、武葉槌命を祀る本殿が、武葉槌命に倒された甕星香々背男の上に建っている
       ということになるわけですね・・・。

       なぁんか、不思議。

       さて、私が、社務所におられた女性に、
      「香々背男の神様について知りたくて参拝に参りました」
       と告げると、とても嬉しそうに応対してくださりました。

      「そうやって、遠くから来てくださる方がたくさんおられるんですよ」
       と。

       由緒では、香々背男の神様について「悪神」と書かれていますが、
      「香々背男の神様は、愛されておられるんでしょうか?」
       という質問には、
      「えぇ、そうですね」
       というお答えでした。

       それで、最初の疑問。

      「岩全体が香々背男の神様なのに、祠に祀られているのは、武葉槌命なんですね?」

       これについては、しごく明快なお答えをくださりました。

       つまり、退治された香々背男の神様は、その後も荒れ続け、かなりの祟りがあったの
       だそうです。
       そこで、「香々背男神を封じるのは、武葉槌命だろう」ということで、武葉槌命が、
       祀られたのだ、と。

       面白い。

       実は、今回、香々背男神に関連の深く、ご祭神が武葉槌命になっている、石井神社も
       参拝したのですが、その神社の宮司さんも、
      「伝説では、香々背男命は悪い神となってますが、これは、違いますわな。
       実際は、良い支配者だったと思います」
       と、香々背男神に対して、愛情を感じておられるようでした。

       つまり、武葉槌命は、愛される支配者を倒した「侵略者」になるのではないでしょう
       か?

       なのに、伝説を見る限り、そういう憎しみの感情が感じられません。

       関西にも、祟った神はたくさんいます。

       いわゆる「御霊」。

       菅原道真公と崇道天皇、ならびに崇徳上皇が有名ではないでしょうか。

       どの人々も、祟ったために、「神」とされ、崇められました。

       少なくとも、
      「菅公が祟るから、藤原時平を祀ろう」とか、
      「崇道天皇が祟るから、桓武天皇を相対して祀ろう」
       なんて話には絶対ならなかったでしょう。

       そして、後世に語られる時、
       ・・・日本人の判官贔屓癖があるにしろ・・・
       菅公=善玉
       時平=悪玉
       という流れで語られるんじゃないでしょうか?

       なのに、ここではそうではない。

       香々背男命は愛されている。もちろん善玉である。
       なのに、武葉槌命も少なくとも悪玉ではない。どちらかというと、本当に尊敬されて
       いるような気配。

       これはなぜでしょうか?

       香々背男が本当に「悪神」だったということでしょうか?

       ・・・それはないような気がします。
       悪い支配者が強大な勢力を誇ることは・・・もちろんないわけではありません。
       ただし、「悪い支配者」というのは、外から見た「感想」です。

       どんなに悪い支配者でも、人民がついてきているということは・・・勢力が強大であ
       るということは、人民にとっては、「良い支配者」だったと言えるんじゃないでしょ
       うか。

       としたら、その支配者を滅ぼした武葉槌命は、外からやってきた、「侵略者」とされ
       ると思うんです。
       なのに、尊敬されているようであります。

       つまり、武葉槌命は、香々背男神を滅ぼしたのではなかった?

       或いはそうかもしれません。
       滅ぼしたのではなく、単に、和平交渉を結んだだけなのかもしれません。

       ただ、こうも考えられます。

       つまり、武葉槌命は、香々背男以上に、すばらしい支配者となったのだ、と。

       武葉槌命は、「瓊々杵尊のために」香々背男神を倒した、ということにはなっていま
       す。
       でも、この神社の伝説を読むと、どうも、香々背男の後を引き継いで、この地を治め
       たのは、瓊々杵尊ではなく、武葉槌命のようです。

       香々背男神から、武葉槌命への勢力交替がどのように行われたのかはわかりません。

       もしかしたら、武葉槌命は、正当に香々背男神から権力の座を譲られたのかもしれま
       せん。

       そして、この神も、武甕槌神と、経津主神(ご由緒では、『常陸国を平定した神』の
       名から、この神の名前は欠落してますね。なぜでしょう?)を追い払った。

       が、日本書紀編纂の時、それでは具合が悪いので、武葉槌命は、天孫側の武将だった
       ということにした・・・。

       また、こうも考えられます。
       香々背男命から武葉槌命への権力交替は、それほど平和的ではなかった。

       ただ、普通の生活者としては、権力者が変わることで生活が悪くなることを恐れはす
       れ、誰が権力者であるか、権力者個人については、それほど拘泥しないんじゃないか、
       という気がするんですよ。

       権力者個人よりも、権力者の政策の方がずっと大事だと思うんですよね。

       クローディアスだって、確かに実の兄である前王を毒殺したことは、非難されるべき
       だけれども、
       権力者となった後、グチグチ文句垂れてるのは、ハムレット(と、前王の亡霊)だけ
       なわけです。
       もしかしたら、人民には、「前王よりも良い政治をなさる」と評判がよかったかも。

       ただ、哀しいことに、主人公は、子憎たらしい甥っこの「ハムレット」。
       物語は、ハムレット寄りで進められてしまったので、彼は残虐非道の人非人として、
       後世(?)に名を馳せることになってしまいました。

       ・・・クローディアスに関しては、志賀直哉の「クローディアスの日記」を読まれ
       た方が面白いので、こちらをどうぞ。

       閑話休題。

       てなわけで、いろいろ想像してみても、どうも、
       香々背男神はよい支配者だった。
       武葉槌命もよい支配者だった。

       この線は崩れようがなさそうに思えるんですが・・・。
       どう思います?

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