祭 神:倭大物主櫛甕玉大神 大己貴大神 少彦名大神 説 明:栞によりますと、 「古く大杉神社の鎮座する地は『アンバ』と呼ばれ、後に安婆、阿波、 安場、安葉などと標記されるようになりました。このアンバの地は、 銚子と浜崎を湾口とし、現在の霞ヶ関(西浦、北浦)、利根川、印 旛沼、手賀沼を内包して余りある広大な内海に、西から東に向けて 突出した半島上に在りました。 この半島は『常陸風土記』に安婆島(あんばじま)と記載される半 島で、そのほぼ先端にあたる地に一本の巨杉がそびえ立っておりま した。風土記がこの辺りの地名を海苔干しの盛んなところであった ことから『のりはま郷』と名づけたことを伝えるように、この近隣 では漁撈を中心とした生活を営んでいたことが知られ、この住人た ちを守護していたのが大杉の当初の形でありアンバの地に鎮座する 神様であったことから、『あんばさま』と呼ばれるようになりまし た。 また内海のいたる所から見える巨杉は、航海の目印ともなり、周辺 住民の守護神の鎮まります神籬でもありました。こうした原初の生 活守護、海河守護信仰に加え、神護景雲元年(767年)大和国の 大神神社(三輪明神)から下野国の日光山(二荒山神社)を開山に 向う途上の勝道上人は、この巨杉を神籬として三輪の神々を招臨し 人々を数々の奇跡で救済するに至り、厄難守護の信仰へと発展し、 『悪魔ばらえのあんばさま』と呼称されるようになりました。 また、延暦十五年(796年)僧快賢は別当寺竜華山慈尊院安穏寺 を開基、ここに神仏習合による祭祀が始まりました。 文治年間(1185〜1190年)になると源義経の眷属であり、 武蔵坊弁慶とともに活躍した常陸坊海存が社僧として大杉大神さま に仕え、多くの奇跡を示しました。 文治五年九月二十七日(1189年)、海存坊はあんばの地から忽 然と姿を消し、人々は海存坊が大神さまの眷属であったことを知る にいたりました。巨体・紫髭、碧眼、鼻高であった海存坊を祀るた め似姿を像に刻んだのが天狗信仰へと発展しました。これが現在の ねがい天狗・かない天狗のおこりだといわれております。 また海存坊を御眷属としていかなる願い事をも叶えてくださった大 神さまの尊い御神徳から、人々は当神社を日本唯一・夢むすび大明 神と呼ぶようになりました。 さらに大神さまの尊い御神威により、江戸時代初頭、江戸崎不動院 にあった天海は、東條の浦に船を浮かべ浦の東に鎮座する大杉大明 神を勧請。みごとに雨を降らせるという修法を行い、軌跡を示しま した。この後天海は徳川家康の宗教顧問として参謀役を務め、秀忠、 家光の三代将軍に信任を得て、当神社を江戸城の鬼門鎮護と定める とともに自らも別当安穏寺の住職となりました。 天海は東叡山寛永寺を興し、大師号を得て慈眼大師となった僧です が、こうした当神社と天海の縁をもって以後別当安穏寺は日光山輪 王寺の直兼帯寺院となりました。 さらに家康江戸入府以降進められた河川改修は、それまで江戸前 (東京湾)に注ぎ込んでいた利根川の流路を銚子を河口とするそれに 変貌させ、霞ヶ浦周辺の守護神であった大杉神社は、利根川水系を 守護する神社となりました。 殊に享保十年にはじまる『悪魔祓え囃子』(後のあんば囃子・大杉 囃子・佐原囃子・潮来囃子など)の流布にともない分祀や信仰が多 くの地域に拡がりをみせ、大杉神社に対する信仰(あんば信仰)は 隆盛を極め、北は北海道から東北、裏日本は佐渡島、内陸は栃木、 群馬にいたる広範な地域に及びました。また社殿等の整備等も急速 に進められて行きました。 慶応四年(1868年)神仏判然例の布告にともない神社本来の祭 祀に戻るとともに、一県に一院設置の新治県中教院が当神社に置か れることとなり、新治県内の神職たちの学問の場となりました。 こうした大神さまの尊い御神徳と御由緒をもちまして昭和五十七年、 当神社は神社本庁により別表に掲げる神社(別表神社)とされ、い まなお多くの方々の信仰をあつめております。」 とあります。 住 所:茨城県稲敷郡桜川村阿波958番地 電話番号:0298−94−2613 ひとこと:天海僧正の話題だ!!(^O^) 関東にきたら、このお坊さんは必須ですよね♪ でも、神社の紹介を、まず、駆け足で。 かなり盛りだくさんの神社でした。終わりっ!! ・・・ってわけにもいきませんから、説明をば。 まず一の鳥居の両端にこま犬の如く鎮座ましますのは、烏天狗と大 天狗の首像でございました。 うへ〜〜〜〜〜と、境内に入ると、「玄武」「青龍」「朱雀」「白 虎」の四神を書いた石柱が、私は方角を確かめることはできません でしたが、多分、北に玄武。東に青龍。南に朱雀・西に白虎という ように置かれておりました。 そして、本殿に至るまでの参道に、茅の輪。 ・・・・・。???????????? 天狗は、この神社(というより、一体であった安穏寺)の社僧・海 存坊への信仰なわけですね。 四神があるのは、江戸の鬼門鎮護の役目上かな? んでもって、茅の輪は・・・。茅の輪はなんでだろう?? 茅の輪っていうと、つい、蘇民将来の厄除けを思い出して、素盞鳴 尊との関連を考えてしまうのですが。 「厄除け」の縁起物として、茅の輪は定着してきているのかも知れま せん。 この神社の場合は、大神神社の神々を祭祀していますが、どちらか というと、お寺の力が大きかったように感じますね。 江戸のお膝元だったんだなぁ・・・なんて考えます。 さて、天海僧正です。 名前は聞いたことがあるでしょう。 徳川家康の懐刀にして長命。 江戸の設計者でもある、大物です。 江戸は、天海僧正により、風水好地に改造された、とよく言われま す。 ただ、同じように風水好地になっている平安京と違うのは、それが 人工的に風水好地にしたてあげられたことだ、といわれているので す。 平安京と江戸を比べてみましょう。 まず、風水好地とは、図にすると、どうしても女陰に見えてし方な い形です。 それじゃ全然わからん??そうでしょうね(^^ゞ 具体的に説明すると、 北に主山、大きな山です。これが玄武になります。 東側に川。これが青龍。 西には道。 南には海か池があるのを四神相応の地。つまり風水好地と呼ぶので す。 さて、玄武です。 平安京の玄武は、船岡山 江戸の玄武は多摩丘陵にあたるといわれます。 青龍は? 平安京は、鴨川 江戸は荒川・隅田川をあてています。 朱雀、 平安京は、巨掠池 江戸は東京湾。 最後に白虎ですが、 平安京は、山陽道 江戸には中山道が走っています。 この時、風水的に整えるために大掛かりな河川改修が行われたのだ と言われます。 そして、鬼門鎮護、平安京は比叡山ですね。 そして、江戸では、有名なところでは浅草寺ですが、この大杉神社 も鬼門鎮護の社寺として名乗りをあげているわけです。 なんとなく鬼門鎮護に一番リキ入ってるようにも見えますね。 さて、ここで、鬼門鎮護です。 浅草寺は、鬼門鎮護のためにわざわざ建てられたものですが、この 大杉神社は、もとからその場所にあった社寺のうち条件に当て嵌ま るものを鬼門鎮護に任命した、ということになっています。 鬼門鎮護の条件ってなんでしょうか。 まず、鬼門の方角にあること(当たり前か) そして、力がある、ってことでしょうね。 力があるかどうか、はわかりませんが、この大杉神社は、大神神社 勧請してきた、大物主・大己貴をお祀りしています。 そして、平安京の鬼門鎮護たる日吉大社も、同じく、大神神社から 勧請してきた、大己貴命を祭祀しているんです。 そして、織田信長に焼き討ちされた神社を再興した人物は・・・。 なんと、天海僧正なんだそうです。え、ほんと? ・・・・・。 日吉大社に大己貴命が勧請されたのっていつだろ・・・。 日吉大社の栞によれば、天智天皇七年(西暦668年)大津京遷都 にあたって国家鎮護のため、大神神社からご神霊をお迎えした。 ふぅむ。天海僧正が勧請したわけじゃないのか。残念。 しかし。 鬼門鎮護に大己貴・大物主。 そういえば、平将門公を祀る神田明神には、やはり大物主命が祀ら れてたのを思い出しました。 荒らぶる神に、大己貴・大物主をぶつける理由ってなんでしょう。 大物主・大己貴を大国主命の別神として、因幡の白兎などの優しい 神話を思い出すなら、「柔よく豪を制す」なんてことになるかも、 しれません。 反対に、崇神天皇の時、祟りまくった神様だということを思い出す なら、「目には目を」かな?ちょっと違うか。 「鬼」が入ってくる鬼門を護るには、この大国主のもつ、ダイナミズ ムが必要だったのかも知れませんね。