祭 神:天羽槌命 説 明:天羽槌命は、倭文臣の祖神で、織物の神様です。 出雲国譲りにあたって、剣の神様・武御雷命でも従わせられなかっ た「香香背男(かかせお)」を制した神様であります。 神社の創建は明らかではありませんが、延喜式神名帳に記載された、 由緒ある神社です。 住 所:京都府舞鶴市今田津ノ上1010 電話番号: ひとこと:秋祭りには、サトイモの茎の「ずいき」で屋根をふき、野菜や穀物、 豆、花(カボチャ・唐辛子・米・粟・など25種小豆・黒豆・菊な ど)類の作物で飾った「ずいき神輿」が奉納されます。 このずいき神輿を奉納する神社は、京都・奈良・滋賀の中で探すと、 他に、北野天満宮・大将軍八神社・棚倉孫神社・御上神社・御園神 社という神社があがりました。 食べることができるもので神輿を作り、奉納するということに、ど のような意味があるのでしょうか? 奈良県にある、「倭文神社」には、人身御供を捧げるというお祭り が現代でも、あります。 謂れは、奈良新聞さんの記事によると、こうです 「その昔、村には、大蛇のいけにえとして毎年幼児を神前に捧げる風 習があった。あるとき、いけにえの順番の巡ってきた家族に話を聞 いた高僧(弘法大師とも、理源大師とも言われる)が、子どもの代 わりに人身御供に。大蛇の体内に飲み込まれた高僧は、腹の中から 大蛇を3つに切り裂いて退治したという。その後、神前には人の形 に似せた神饌が供えられることになった。」 さて、人身御供の胴体は、麦わらを束ねたもの。 胴の周囲に長方形のモチを木のくしで刺していく。モチを刺す段数 は五段、四段、三段があり、五段が10個、四、三段はそれぞれ1個 ずつ作られる。胴囲のモチを刺し終わると、ヒノキの葉をかぶせ、 十字に組んだ長いモチ、ワカメが順に重ねられる。その上に人形 (ひとがた)が乗せられ、仕上げに御幣(ごへい)が突き立てられる。 人形の顔は、たてに切った里イモ。切断面に「へのへのもへ」の目 鼻が書き入れられる。この顔面部人形は完成。 この神社では、わざわざ、供物を「人形」にしています。 もともと、「人身御供(ひとみごくう)」という行為にはどのよう な意味があったのでしょうか? 旧約聖書の創世記の中で、神・エホバは、アブラハムの信仰を試す ために、アブラハムの一人息子・それも年老いて(夫100歳・妻 90歳っつぅ年齢ですから、まぁ・・・奇跡ですね)できた息子・ イサクを犠牲として捧げるように命令します。 アブラハムは、どうしたか? 素直にイサクを殺そうとするんです。 え? 「あほか?」 まぁ、そうなんですが、アブラハムは、エホバを信じていたわけな んですよ。 イサクを殺せと言うには、訳があろう、 イサクを悪いようにはしまい、 そういう信頼があって、イサクを殺すことにするわけです。 他人から見れば、狂気・狂信ですが、もし、本当にエホバの愛があ るのならば、いや、真に信じるのならば、当然至極の行為ですね。 人身御供というのは、「最高の供物を神に捧げる」行為です。 そこには、神に対する恐れよりも、神に対する信頼がある、と、私 は思いたいのです。 供え物となってしまった人間も、「悪いようにはならんやろ」とい う「神に対する信仰・信頼」があるから、成り立つ行為なのだと。 「ずいき神輿」も、きっと、最高の供物を神に捧げたいという人々の 気持ちの現れなのではないでしょうか? 手の込んだ神饌を捧げるのは、それだけの「気持ち」の篭ったもの を捧げるのだという、人々の信仰の現れなのでしょう。 さて、この神社には妖怪がいます。 気をつけましょうね(^^ゞ