祭 神:源満仲公 説 明:長いですが、栞から 「天禄元年(西暦970年)当事、摂津守であった公が一の宮住吉 明神(現在の住吉大社)に参篭、ご神託を蒙り此の地を開拓、源 氏の居城となし(本朝、城の始まり)円融天皇より此の城をもっ て禁裏守護職武門の棟梁万代の居城たるべしとの勅諚を賜ったと ある。そして、公七十五歳の時、勅許を得て仏門に入り一寺を創 設して公二十四歳の自影を安置して国家守護武運長久の霊場とな して、多田院と号した。 長徳三年(西暦997年)満仲公薨去の後その廟所の造営と満仲 公を祀る御影堂が中心となって多くの寺坊が建立された。多田院 は別称を鷹尾山法華三昧寺と呼んだが、宗派は開創当事は天台宗 (満仲公末子・源賢僧都延暦寺修行)から後年西大寺忍性の再建以 来真言律宗に転じた。 当社所蔵の古文書のうち、貞応二年(西暦1223年)九月二十 四日付けの北条泰時の書状によれば、泰時が多田院に対し、代官 使の入部を停止させていることがわかる。以来鎌倉幕府は、多田 院を重要視しており、文永十年(西暦1273年)四月に至って は、多田院造営を督励し、時に造営奉行として僧良観(忍性)に あたらせた。 当社縁起によれば、足利尊氏は建武三年(西暦1336年)三月 二日の九州多々良浜の合戦以前に多田の由緒を伝え聞いて多田院 を崇敬したと伝えている。事実現存古文書のうちに、建武三年三 月二十五日付け尊氏戦捷祈願の御教書がある。ついで建武四年七 月二十五日には、尊氏は、摂津善源寺東方地頭職を寄進している。 そして延文三年(西暦1358年)四月三十日尊氏が没すると、 同六月二十九日付けで義詮は父尊氏の遺骨を多田院に納めている。 以来、多田院と足利家の関係は益々密となり、歴代将軍の没後は、 必ず尊氏に倣っている。 次に、満仲公廟所の鳴動についてであるが、廟所がしきりに鳴動 して、時変の急を天下に予告したという。多田院の鳴動は同縁起 によると、すでに頼朝のころに端を発している。現在の鳴動文書 によると、室町時代において、応永二十二年・同三十四年・寛正 五年・文明四年・同十四年・長享元年・延徳三年・永正四年の各 年代にわたっている。多田院以外のところでも、その例が見られ るが、多田院鳴動は常に御佳例によりとあるところに特色がある。 ところで、多田御家人というのは、公家または武家の臣というこ とであるから、多田御家人とは多田庄の武士で、祖神満仲公を中 心として結束した一群の武士談から出発した名称である。」 住 所:兵庫県川西市多田院多田所町1−1 電話番号:0727−93−0001 ひとこと:源満仲公は、人皇五十六代・清和天皇の御曾孫で文武両道に秀で られ、御歳二十四歳の時源姓を賜ひ、常陸介、武蔵、摂津、越前、 伊予、陸奥の守を経て、左馬権頭治部大輔に累歴して鎮守府将軍 を拝し、武門の棟梁たるの勅諚を賜い、村上・冷泉・円融・崋山 の四朝に仕え、赫々たる武勲をたて、正四位下に叙せられた、と にかく、英雄です。 文明四年従二位に、元禄九年多田大権現の神号を賜り正一位の神 階を贈られたとか。 トントン拍子に出世した、清和源氏の頭なんですね。 それだけじゃありません。 満仲の息子の名前は、頼光。 ほら、聞き覚えあるでしょう? 源頼光と言えば・・・。そう。 大江山の鬼退治をしたのが、この頼光です。 また、満仲自身も、九頭の大蛇を退治した伝説が残っています。 そして、満仲・頼光直系の子孫にあたる、源頼政が退治したのは、 怪鳥鵺です。 何代末の子孫かはちょっとわからないのですが、満仲が西暦91 2年〜997年、頼政は、西暦1105年〜1180年ですから、 系図の中の全ての長男が、20歳で長子を生んだと仮定すると、 11代目くらいの子孫ということになりますね。 とすると、頼政が、満仲・頼光の子孫というのは、彼が化け物退 治をしたことにより、後世に付会された伝説かも知れません。 それはさておき、それぞれが倒した怪物を詳しく述べてみましょ う。 満仲の倒した大蛇。 龍女が手を焼いていた、九頭の大蛇 その他、戸隠山の鬼を退治したという話も。 どちらにしても、化け物を退治することにより、土地を開墾した という説明がくっついています。 頼光が退治した酒呑童子。 都の姫を攫っては、遂にはこれを食ろうていたという鬼。 伝説はいろいろありますが、三年間母親の胎内にいたということ。 幼名を外道丸と言い、寺へ稚児としてあずけられたが、美貌の持ち 主だったので、多くの女性たちに恋慕されたこと。 しかし、外道丸に恋した娘たちが、次々と死ぬという噂が立ち、外 道丸がこれまでにもらった恋文を焼きすてようとしたところ、煙が たちこめ煙にまかれて気を失い、気づいた時には、鬼の姿になって いたということ。 などなどです。 しかし・・・。 今では、朝廷に纏ろわぬ民の首領であったという見方が主であるよ うです。 頼政が退治した鵺。 頭は猿、体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿という異形の妖怪。 毎晩、丑満刻に、東三条の森から黒雲が現れて内裏を覆い、妖鳥の 声がしたんだそうで・・・。 大体、この時代って、夜は月明り以外なかったでしょうから、雲が どこから現れたかなんて分るはずないと思うんですがね? ただ、時の近衛天皇がやたらと怖がるので、怪物の仕業と思うしか なかったんでしょう。 夜は目が見えないはずの鳥の声が暗闇からするのは、あまりぞっと しないですしね。 さて、そんなことを考えると、やはり一番の手柄は、頼光でしょう。 なんといっても、たった5人(渡辺綱・碓井貞光・卜部季武・坂田 金時の四天王と、頼綱自身)で、酒呑童子率いる鬼(敵対勢力)達 を退治したんですからね。 かなりの戦上手だといえるでしょう。 鵺の伝説も、もしかしたら、夜討ちをかけようとする、敵対勢力を 退治したということなのかも知れません。 だとしたら、頼政一人で、敵を倒した? う〜〜〜む。それはすごい・・・ってなわけはないので、頼政軍が、 敵対勢力を破ったのでしょう。 敵対勢力を「化け物」に描写するのは止めて欲しいですね。全く。 ややこしいったらありゃしない。 もひとつおまけに分るのは、源氏は、いつだって朝廷側だというこ とでしょうか・・・。ふぅん・・・。