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伴林氏神社

	tomobayashi





  祭  神:高御産巣日神 天押日命 道臣命
  説  明:栞には詳しく書かれています。
      「創建は古く、三代実録によれば、清和天皇の貞観九年二月二十
       六日(西暦867年)、志紀郡、林氏神は既に官社と記され、
       同じ十五年十二月二十日には祭神・天押日命に従五位が授けら
       れている。
       しかし延喜式神名帳の記載にも伴林氏神社の名が登場すること
       から、それよりはるか以前から道臣命の子孫がこの土地に住み、
       大和朝廷時代の名門として祖先を祀ってきたものと思われる。
       その子孫たちは代々、守護の責任者として朝廷に仕え、七代目
       の武持は景行天皇から大伴宿禰を賜り、金村は平群氏を撃ち、
       長徳は蘇我氏を滅ぼして右大臣になっている。
       時代はさらに降って壬申の乱には、吹負が天武天皇に従って戦
       功をたて、旅人もまた吸収を鎮定して従二位大納言まで昇進し
       た。
       とくに家持は歌人としても優れた才能を持ち、万葉集を編纂す
       るなど日本和歌史上、不朽の活躍をしたことで広く知られる。
       国道の時、淳和天皇の贈り名が大伴であったため、大伴宿禰を
       伴宿禰に改めたが、その子の大納言善男が応天門の変(西暦8
       66年)に敗れて伊豆に流されてからは、一族の力は急速に衰
       えていった。
       戦国時代、神社は信長の兵火に遭い焼失。
       それまで神社の維持管理をしていた伴氏も絶え、その後はわず
       かに地元民らの産土神として小さな社殿を再建して伝え、明治
       の始め、村社となった。
       昭和七年ごろ道臣命を祀る全国唯一の神社として注目を浴びる
       ようになり、戦時中の同十五年には、『西の靖国神社』として
       整備充実が進み、府社に昇格したが、戦後は宗教法人として、
       自立。伊勢神宮を本宗とする神社本庁の包括となり今日に至っ
       ている。」
      「先導の神 道臣命
       天押日命より三代目で、始めは日臣命と申し上げた。
       神武天皇が高千穂の宮から大和に御東征される途中、河内の国
       の孔舎衛坂(現在の枚岡市日下町)で長髄彦に行手を阻まれ、
       日の神の威光を背に負うために熊野へ迂回され、険しい山路に
       難渋を重ねたが、高木大神の使者・八咫烏の道案内を得て、日
       臣命が大軍を指揮して無事に難路を切り開き、大和の国・莵田
      (宇陀)に天皇を先導され、その功により道臣の名を賜った。
       ちょうどその頃、莵田の兄宇迦斯が天皇を罠に陥れようと悪計
       を企てたが、道臣命はこれを見ぬいて逆襲し、相手は自分の仕
       掛けた罠にかかって倒されてしまった。
       さらに忍坂の八十建の抵抗がとくに激しかったので、天つ神・
       高御巣日神の訓えに従い、天皇は天香具山の埴を取って莵田川
       の朝原に天神地祇を祀られたが、このときも道臣命は厳姫の名
       を頂き、斎主を勤められた。
       やがて八十建は国見山で滅ぼされ、さらにその残党も、勅命に
       より大来目部を率いて出陣した道臣命によって全滅せられた。
       その後、長髄彦も金色の鵄の威力を得た東征軍に撃ち滅ぼされ、
       天皇は大和の橿原の地でめでたく即位の礼を挙げられたが、そ
       のときも道臣命は諷歌や倒語を発案し、もろもろの邪気を払い
       退けられたという。
       天皇は道臣命の功績を殊の外称えられ、築坂邑(現在の橿原市
       鳥屋町辺り)に宅地を下賜され、とくに寵愛されたという。」
      「生成の神 高御産巣日神
       創造、発展、完成の神秘な力を持つ神で、天つ神の中でも特別
       な神として第二番目に出現された。古事記には『高木の神』の
       御名で記されている。天孫降臨をはじめ、神武天皇の御東征の
       際にも、いろいろと指揮命令された尊い神。」
      「守護の神 天押日命
       大伴連の遠祖で、高御産巣日神から五代目に当る神。
       天津日高日子番能邇邇芸命が日高の高千穂の宮に降臨された時、
       背には丈夫な矢入れを負い、八つ目の鳴鏑の矢(よく音をたて
       る矢)を打ち添えて、また、頭槌剣(柄の頭が槌のような形を
       している剣)を腰に差して、御前にお仕えされた神。」
  住  所:藤井寺市林3丁目6−30
  電話番号:0729−54−5126
  ひとこと:幹線道路を少し外れたところに、ふと静かな空間が出現し、
       それが、この伴林氏神社です。
       夏は蝉がたくさん集まってきます。

       なんて、何しろ、神社巡りを始めた頃に訪問した神社なもので、
       よくいえば、あっさり。
       悪くいえば、資料性のない紹介になっていました。
       説明も栞の記載のうち理解可能な部分だけの抜書きでしたし(^^ゞ

       しかし、神社紹介を始めて1年以上経った今、見直してみると、
       全国で唯一、道臣命を祀った神社ということではないですか。
       これは、道臣命について、もう少し調べてみねば。

       まず、「西の靖国神社」と呼ばれたとのこと。
       どういう意味でしょ?
       靖国神社っていえば、首相が参拝したとかなんとか毎年必ず話
       題になりますが、結局どういう神社か知らない人もいらっしゃ
       るでしょう。

       靖国神社の創建は、明治二年。
       明治天皇が、戊辰戦争(明治維新に関わる内戦ですね)で斃れ
       た人達を祀るために創建したものだったようですが、今では、
       外国との戦争で日本を護るために亡くなった人たちを祀る神社
       になっているんです。
       そういう神社に首相が参拝して、何か問題が?
       戦争反対派がうるさいのか?
       政教分離の観点からか?
       と思うでしょうが、問題は、ですね。戦犯も一緒に祀られてい
       ることなんですよ。
       戦争で亡くなった一般の人たちは、顕かに被害者ですよね。
       魂を鎮めてもらう為にお祀りするのは、当然のことだと思われ
       ます。
       その方法が、仏教でも神道でもキリスト教でもなんでも、関係
       ないでしょう。
       と、私は思います。
       が、戦争を起こした張本人達については、どうか?
       ってなまぁ、そんなことですね。
       ちとずれてるかも知れませんが(^^ゞ

       ま、そんなわけで、日本・天皇を護った人を祀った神社という
       意味で、伴林氏神社を「西の靖国」と呼んだんでしょう。
       多分、ヤマトタケルを祀った神社、例えば「建部神社」は「近
       江の靖国」、「熱田神宮」は「相模の靖国」なんて呼ばれたん
       だろうな・・・。多分ね。

       さて、話しは道臣命に戻しましょう。
       一つ発見。
       伴林氏神社が道臣命を祀った全国唯一の神社ではありませんで
       した。
       例えば、「刺田比古神社」。
       こちらも、大伴氏系の神社のようです。
       大伴氏は、「紀大伴氏」と、「大和大伴氏」があるようで、刺
       田比古神社は、紀大伴氏なのですね。

       そして、特徴的なのが、斎主となったり、諷歌や倒語で邪気を
       祓ったり、つまりまじない事も担っていたということでしょう。

       この部分を日本書紀から転記しましょう。
      「道臣命にいわれるのに、『いま高皇産霊尊を、私自身が顕斎し
       よう。お前を斎主とし、女性らしく厳媛と名付けよう。そこに
       置いた土瓮を厳瓮とし、また火の名を厳香来雷とし、水の名を
       厳罔象女、食物の名を厳稲魂女、薪の名を厳山雷、草の名を厳
       野椎とする』と。」

       顕斎とは、見えない神を顕かに見えるように斎き祭ること、と
       説明されています。つまり、神社で神主がされているように、
       神様を祭ることになるでしょう。
       そうしますと、斎主は?巫女のことなのでしょうか。
       なぜ、わざわざ女性名にする必要があったのか。
       口寄せなどを行うのは専ら女性ですね。
       女性の方が神懸りになりやすい、ということでしょうか。

       また、諷歌や倒語について考えてみましょう。
       諷歌とは、他のことになぞらえて諭す歌。
       倒語とは、相手に分らせず味方にだけ通じるよう定めていう言葉。
       と説明されています。

       考えてみるに、諷歌とは比喩ばかり用いた歌のようなものでしょ
       うか?大概の歌はそうなっていますね。
       倒語は簡単、暗号のことでしょう。

       問題は、なんでそんな歌や暗号に、邪気を祓う力があるのか?
       という所でしょう。

       回文を持って、害虫を祓うのは、ホツマツタヱの中の若姫です。
       言葉には、「力」があるのですね。

       道臣命を巫女として考えて、巫女が歌や暗号を用いる場面がある
       のでしょうか?
       答えは、ある、といわざるを得ないでしょう。

       巫女を三省堂の「大辞林」でひいてみましょう。
      「@神に仕えて神事を行い、また、神意をうかがって神託を告げる
       未婚の女性。かんなぎ。
       A神懸りの状態になって口寄せなどをする女性。いたこ。ふじょ」

       神託を告げるのも、口寄せするのも、結局は同じようなものだと
       言えると思うのですが、目に見えない「誰か」それが神かどうか
       は、断言できない誰かの言葉を、人間の言葉、日本の場合は日本
       語にして、人々に伝える役割です。

       その神の言葉は、多くは諷刺や暗号ではありませんか?

       橿原宮創立に際し、道臣命が用いた諷歌や倒語がどのようなもの
       か伝わっていないので、断言できませんが、この時も道臣命は、
       神懸りになっていたのかも知れません。

       違う面から見てみましょう。
       業界用語って諷歌や倒語そのものじゃありませんか?
       無意味に言葉を逆転(倒す)させたり、何かに喩えたり。

       それが邪気祓いになるのかどうかは分りませんが、少なくとも、
       場違いな野郎に、入ってこさせないにはよいですよね。

       つまり、邪気ってのは、「場違いなやろー」なんですね。

       なるほど、なるほど。

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