祭 神:彦火火出見尊を若狭彦神とたたえて奉祀 境内社 若宮神社 ご祭神:うが草葺不合尊 説 明:栞を転載します。 「霊亀元年九月十日鎮座 小浜市下根来白石に鵜の瀬というところがある。 遠敷川の清流が巨巌に突き当たって淵をなしておる。この巨巌の上に、先づ 若狭彦神、次いで若狭姫神が降臨されたと伝える。この南方150mのとこ ろに、創祀の社と伝える白石神社がある。 その後、永久鎮座の地をもとめて、若狭国を巡歴なされた末、霊亀元年九月 十日に、龍前に若狭彦神社、六年の後、即ち、養老五年二月十日に、遠敷に 若狭姫神社が鎮座。 上下分かれての鎮座は、深き幽契の存するところと恐察しまつる。 下社を古来、若狭姫神社、遠敷神社(遠敷明神)とも称したが、明治初年、 国幣中社に列せられて、官祭を仰せ出された後は、若狭姫神社、または若狭 彦神社下社と公称されるようになった。また上社及び下社を併せて、若狭彦 神社とも、上下宮ともたたえまつる。」 住 所:福井県小浜市龍前28−7 電話番号:0770−56−1116 ひとこと:参拝したのは、モリアオガエルの産卵の時期でした。 木の葉に産み付けられた卵の下を見ると、イモリや蛇が!! 卵が孵って小さなおたまじゃくしが出てくるのを待ってるんですねぇ。 自然の静かな営みを感じつつ、ぷっくりとした、イモリのお腹を触ってみた い衝動にうずうずしてしまいました。 それをぐっと堪えたのは、私が近づいても、イモリや蛇が呑気にしているこ と。 つまり、それほど外敵のいない長閑な環境で育ってきたこれらの爬虫類・両 生類を脅かすのはかわいそうだな、と思ったから・・・ってのもありますが、 実は、蚊がすごかったからってのも大きいです(^^ゞ さて、この夫婦神が降臨された年については、明記されていません。 それでは、この地に永久鎮座された年、養老五年とはどのような年でしょう か。 また、若狭彦神社に若狭彦大神が鎮座された、霊亀元年とは? 「続日本紀」霊亀元年を見ますと、この年は西暦で言うと、715年。 9月2日に、元明天皇が、氷高内親王(元正天皇)に位を譲られたとしてい ます。 若狭彦神社が、永久鎮座されたのは、これより、まさに一週間の後のことで あることがわかります。 ちなみに余談ではありますが、元正天皇が即位の時の元号は「霊亀」。 譲位して、「神亀」となります。 「霊亀」は、その前年8月28日、左京の人、大初位下の高田首久比麻呂が献 上した亀にちなんだ元号でしょう。 その亀は、「長さ七寸・幅六寸、左眼が白く、右目は赤い。頸に三公があら われており、背には北斗七星を負い、前脚にそれぞれ離の卦があり、後脚に はそれぞれ一爻がある。腹の下には赤白の二点があり、それらが連なって八 の字になっていた。」 とあります。 七寸というと21センチほどの長さになりますから、かなり小さな亀である ことがわかりますね。 左目が白く、右目は赤い。 いわゆる「オッド・アイ」ですね。 オッド・アイというと、「猫のことじゃないの?」と思われがちですが、人 間にも、そして、亀にもそれはいたんですね。 そして、頸にある「三公」。 講談社学術文庫「続日本紀」には、「北極星を囲む三つの星」と注釈がされ ています。 つまり不動の星・北極星=天皇を囲む星ということで、大臣を表すのだ、と いえるでしょう。 背にある北斗七星については説明はいりませんね。 次に、前脚にある、「離」の卦。 これは、「火」のことです。 「火」が二つ重なっているということは、「離為火」 「易経」によれば、意味は、 「貞しきに利ろし、亨る。牝牛を畜えば、吉なり」 つまり、正しくて、従順ならば、「大吉」という意味になるでしょうか。 後脚の「一爻」は、不明なのですが、「離為火」の「一爻」は、 「履むこと錯然たり。これを敬すれば咎なし」 つまり、これからコトを起こそうとしている場面で、敬い慎み、正道を 行き、行動を慎めば咎はない、と言うわけですね。 即位しようとする元正天皇には、最高のはなむけになる亀だと言えるん じゃないでしょうか。 そして、「神亀」は、神亀に元号があらたまる前の年(西暦723年) 9月7日、左京の人、紀朝臣家が献じた白い亀に因むようです。 元正天皇は、亀にご縁がある。 そして、即位とほぼ同時に「若狭彦神社」を現在の地に永久鎮座されて いる。 この天皇にとって、「若狭彦」とはどのような神だったのでしょうか? 若狭彦神は、彦火火出見尊の別名だとされます。 ここでも、「火」+「火」が見えますね。 易でいう「火」とは、いろんな意味がありますが、「太陽」のことも、 差すのです。 太陽・・・天照大神。 三代続いた(途中で文武天皇が即位していますが)最後の女帝である、 元正天皇にとって、太陽の徴を得ることは、大いなる励みになったのか もしれません。 彦火火出見尊は、天照大神の曾孫となります。 もし、元正天皇が、祖母である女帝・持統天皇を天照大神に見立ててい たとしたら、「火火出見尊」は誰にあたるでしょう? それは、元正天皇にとって「甥」にあたる、「聖武天皇」ではないでし ょうか? 持統・元明・元正と続く三代の女帝は、自ら進んで即位したわけではな いといわれていますね。真偽のほどはわかりませんが・・・。 つまり、持統天皇は、息子・草壁皇子に皇位を継がせたいと願うも、皇 子は即位の前に亡くなってしまう。 仕方なく、即位し、持統天皇と追号される。 次に、孫にあたる文武天皇に皇位を譲るも、文武天皇も短命。 そこで、持統天皇にとって、姪であり息子の嫁にあたる、元明天皇が即 位。元明天皇がなくなる時には、まだ聖武天皇は幼すぎたため、「中継」 として、元正天皇が即位。 こんな風に、皇位を自分達の血筋から外さないように、彼女らは、必死 で、国を治めてきたのだと、そういわれます。 つまり、聖武天皇は、希望の星だったのでしょう。 若狭彦神社を永久鎮座させた背景には、「今度こそ、聖武天皇こそは、 長命であってくれ」という願いがあったのではないでしょうか? ただし、私は、若狭彦大神=火火出見尊だとは思っていません。 若狭彦神は、もっと土着の・・・海を神と崇める人々が信仰した、海の 神だったのではないかと思うのです。 その神をして、「火火出見尊」と仰いだ、元正天皇にはどのような事情 があったのでしょうか? 海の民の崇める神を自分達の神にすりかえてしまわねばならない事情と は? 何か政治的な意味もあったのだと思います。 しかし、「次の皇太子こそは長命であれ」との祈りがあったのだとした ら、それは叶いました。 聖武天皇の世は、25年にも及んだのですから。