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吉野水分神社

yoshino_mikumari





  祭  神:正殿 天之水分神
       左殿 高皇産霊神 少名産神 御子神 
       右殿 天萬栲幡千幡姫命 玉依姫命 天津彦火瓊々杵命
  説  明:御由緒書を転載します。
      「奈良県吉野郡吉野町大字吉野山鎮座の吉野水分神社は、延喜式神名帳に、
       吉野水分神社大月次・新甞、とある旧社にして、大和四処水分の第一に数
       えられ、吉野八大神祠の一つで俗に子守明神とも申されます御主神は天之
       水分(あめのみくまり)大神でありまして、水戸の神の御子神にて、続日
       本記文武天皇二年夏四月戌午奉馬乎吉野水分神祈雨也とあり、みくまりは
       水配りにて、山谷より流れ出づる水を、程よく田畑に配分して、灌漑の便
       を図り給う神であります、もと潅漑の便を図りて稼植の事を掌理し給ふ神
       でありますが故に、古来風雨順ならず、早天などうちつづきて、稼植を損
       ふが如きことある時にはいつも朝廷より、馬及び御幣物を奉献して、この
       神に祈り給ふを例とせられしのみならず、中古神祇官に於て行はせられし
       祈念祭及び六月、十二月の月次祭には、案上官幣に預る大社である事は、
       延喜式の祝詞に徴しても明白の事実であります、されば当社にては、古来
       大祭として盛大なる御田植祭を執行し、遠近の氏子崇敬者御恩頼を蒙り、
       又神恩に報賽するを恒例となってゐます。
       又当社の事を、古くより子守宮といひ伝へ神名帳考証などにも吉野水分神
       社大月次・新甞祭水神今云子守明神とありて、世人はこの神社を出生育養
       即ち幼児守護の神として崇敬し、既に豊臣秀吉も、この神に祈願して、秀
       頼を設けその縁によりて慶長年中建部内匠頭光重を奉行とし建築再建に当
       らしめたるものにて、現に建物全部が重要文化財に編入せれれ居るは、其
       の当時再建のままの建物であり、それが桃山時代の豪華をもってするので
       華麗であり、精巧を極めています。国学者の泰斗として有名なる本居宣長
       翁も、翁の父母が、この神に祈請をこめし霊験により生れたという事が、
       翁の三度迄も当神社に詣でて報賽せられ、その折詠み残されし和歌により
       ても明白であります。
          吉野山花は見ぬとも水分の
              神のみまへをおうがむがよさ
          水分の神のちかひのなかりせば
              これのあが身は生れこめやも
          父母の昔思へば袖ぬれぬ
              水分山に雨はふらねど
       水分神を、幼児の守護神といふこと、如何にも不審らしく思われますが、
       それは当神社の御祭神は、御主神の外に、尚六柱ありまして御正殿の右方
       の御殿には天萬栲幡千幡(あまよろづたくはたちはた)姫命、玉依姫命、
       天津彦火瓊々杵命を奉斎し、左殿には高皇産霊神、少名産(すくなひこ)
       神、御子神を奉斎しあれば、これにてそのいわれは知れます。
       まづ右殿千幡比売命と、瓊々杵命とは親子にて、左殿の三柱も、皆親子神
       であります。殊に栲幡千幡比売命は、高皇産霊神の御子神でありますが上
       に天照大神の御子正哉吾勝速日天忍穂耳尊に配し給ひて、瓊々杵命を生み
       まし、保育そのよろしきを得て、聡明英達、この国土に降臨され、皇祚の
       基を建て給ひ、又玉依姫命は、御姉豊玉姫命にかわりて鵜草不合葺尊を御
       保育し、後に不合葺尊に配し給ひて、神武天皇を生み奉り、その保育又よ
       ろしきを得て神武天皇が終にこの大和の国に於て日本国の紀元を御創立遊
       ばされし、いとも尊く、いとも目出度瑞祥の存するを以て、この二姫命を
       幼児守護の神として子守神社とたたへ庶人の尊崇するに至りし事、極めて
       道理ある事であります。
       以上略述いたしましたとおり、水分神社といふは、御正殿の天水分神によ
       りて唱へ奉る称号にて、主として山々谷々より流れ出る荒水を甘水になし
       て、程よく田畑に分賦して、稼植を成熟せしめ給ふ農業御守護の方よりた
       たへ奉り、子守宮といふは、左右両殿に奉斎せる神々によりてたたへ奉れ
       るにて、上にいへる如く、御祭神に出生保育、幼児守護の大功徳を備へ給
       へるにより、何時とはなく唱へ奉る称号であります。
       祭神の玉依姫の命の御神像は、日本第一の美女神像にて現在は国宝に指定
       されています。およそ等身大彩色十二単衣をまとい、端麗豊頬でお目の下
       にあるかなきのか微笑をふくみ慈愛柔かさは、面長下ぶくれの高貴さと相
       映えて王朝時代の貴女の気品を備え、えくぼまで表出されていて愛児に呼
       びかけてゐる生きた女神といった感じがあって御子守の神にふさわしく緑
       豊けき頭髪を中央から左右にわけて両肩から背後に垂れ衣紋は肩先から膝
       の上へ全体が正三角という美学の原則そのままであります。尚天萬栲幡千
       幡姫命の御神像も重要文化財に指定されてゐます。
       因に、現今の本殿は、大正十五年五月、奈良県庁の監督の元に修理の工を
       起し、昭和二年八月三十日を以て修理完成いたしました。此の要せし工費
       弐万五千余円にて、尚幣殿は引続きて修理の工を起こし、昭和三年九月此
       修理竣工いたしました。此工費壱萬五千余円でありました。
       又、桜門及廻廊は昭和六十一年一月奈良県文化財保存事務所の直営にて解
       体大修理の工を起し昭和六十二年八月末を以て修覆が終り四百年前再建当
       時を偲ばせる姿になりました。此の要せし工費壱億弐千萬余円でありまし
       た。」
  住  所:奈良県吉野郡吉野町吉野山
  電話番号:07463−2−3012
  ひとこと:この神社に参拝した時、美術系の学生さんが同じ参拝されていました。
       もちろん、興味は神社の造り。
       情けないながら、正式な名称をメモるのを忘れていたのですが、この神社
       の「灯」の飾りなどは、とても古く、立派なものなのだそうです。

       それは、この由緒書通りですね。

       また、神職さんにもお話をいろいろ伺うことができたのですが、この神社
       について残っている記録を見ると、一番古いものが、「修験者」の活動が
       盛んになり始めた時期なのだそうです。
       そして、その当時におけるこの神社の呼称は「子守宮」。
       この神社を「吉野水分神社」に比定されたのは、本居宣長公なんだそうで
       す。

       そもそも、吉野水分神社という名称の神社は、当時から吉野山の麓に数社
       存在したのだそうです。
       が、宣長公は、
      「水分というのだから、麓にあるわけはない。山頂近くにある神社だろう。
       とすると、私にご縁の深い、子守宮においてない」
       と。

       なんというか、「贔屓の引き倒し」という感じもないではないのですが(^^ゞ
       勿論、その他にもいろいろ考証された上でのことでしょう。
      「吉野水分神社」に比定されたのだそうです。

       さて、この神社の造りは、ちょっと珍しい姿になっていました。

       鳥居をくぐり、楼門を入ると、右側にご本殿が三つ並んでいます。
       左側には社務所や宝物殿などが含まれた、ご拝殿。
       そして、奥にはご幣殿があります。
       このご幣殿には、扁額があり、「子守明神」と記されていました。

       つまり、楼門を入ってまず目の前に現れるのは、「子守明神」をお祀りし
       たご神殿なんですね。

       そして、もう一つ感じたのは、この神社の「神域」が、四方を建物で囲ま
       れた、「閉塞された空間」であることです。

       もしかしたら、この神社で行われた古い儀式に、「四方に建物」を必要と
       するものがあったのかもしれません・・・って、これはトンデモな連想で
       すが。

      「おばけ文庫」という子供向けのシリーズ。
       調べて見ると、出版社は太平出版社。
       著者は山田 野理夫さんとおっしゃるようですね。

       図書館で借りて読んだ本なので、もう一度調べる必要があるのですが、そ
       の中に、「寅の日」というお話があったんです。

       12年に一度巡ってくる、「寅の年」。
       その年の寅の月、寅の日に、東西南北の方向に扉のある部屋の真ん中に北
       面して鏡を置きます。
       鏡の前には蝋燭。

       寅の時刻になると、占いをする女性は、白装束を身につけてこの部屋の北
       の方角から入ります。

       口には櫛をくわえる・・・とあったと思うのですが、ここらへん、どうも、
       丑の刻参りとごっちゃになってるかもしれません(^^ゞ

       で、鏡の前に座る。

       蝋燭が消えるとき、被占者の将来が鏡に映る。

       という話だったのですが・・・。

       将来の映り方ってのも素直じゃありません。

       洒落にならない話では、
      「水に溺れている姿」が映ったので、水に近寄らないようにしていたが、結
       局その女性は、水死ではなく、恋情のもつれで絞殺されてしまった。
       しかし、彼女の首をしめた凶器は、水流の模様が入ったタオルだった。
       なんていう、「占いする意味ないやん!」な映り方。

       な〜んだ、な話では、
      「畳がいっぱい立てかけて有る部屋にいる姿」が映ったので、
      「私は牢屋に入れられるのだ」と観念していたら、なんのことはない、結婚
       相手が畳屋だった、という、「心配させないでよ!」な映り方。

       私なら、こんな占いはしません(^^ゞ

       つまり、何が言いたいか、というと、この占いでは、「四方に壁」という
       のがなぜか必須だということです。

       その他にも、「閉ざされた空間」を必要とする神懸り的な行事を数えれば
       たくさんあると思うのです。

       しかし、一般に神社は、「開かれた空間」です。

       神社を囲っているのは、鳥居と玉垣。
       四方のどこからでも、侵入可能に感じさせます。

       そういう意味で、この神社を見てみると、なにやら、格別の雰囲気を醸し
       出している気がするのです。

       この建物が「守っているもの」はなんなのか?とも。

       さて、ご祭神の中にある「御子神」。
       興味の魅かれるお名前です。

       神職さんにお尋ねすると、
      「子供全般を意味するのか、誰かの『御子』であるという意味なのか、資料
       にないのでわからない」
       ということでした。

       ただし、御祭神の「玉依姫」も、もともとは「母神」であったのではない
       か、という説を唱える学者さんもおられるのだそうです。

       つまり、玉依姫は、神武天皇の母として人気の高かった時代があったのだ
       そうです。
      「国母」ですね(笑)

       キリスト教でいうマリア信仰に近いかもしれません。

       そういう時代に、「母神」といえば、国母たる玉依姫だろう・・・と。
      「母神」を、「玉依姫」に置き換えた、というお話らしいです。

       そんなことを考えると、
       左殿には、「御子神」と「高皇産霊神&少名産神」の親子。
       右殿には、「母神」と「天萬栲幡千幡姫命&天津彦火瓊々杵命」の親子。
       がお祀りされている、という構図が浮かび上がってきますね。

       とすると、正殿に坐しておられます「水分神」は、父神?
       などと。

       ただ、由緒書には、
      「水分神を、幼児の守護神といふこと、如何にも不審らしく思われますが」
       とありますが、私は不審とも思いません。

       水の流れと「誕生」は、関連の深いものだと思うからです。

       桃太郎や瓜子姫が川を流れてきた、ということもそうですし、お腹の中で
       赤ん坊が「羊水」という水に浮かんでいるということもそうです。

       人の人生を川の流れに喩える話もありますが・・・。

       命と水の流れは、決して不思議な取り合わせではないと思います。はい。

                  **後 記**

       くだんの「寅の日」について、子供の頃に読んだ本を見つけました。
       太平出版社 山田野理夫著「おばけ文庫6 たんたん ころりん」に記載
       の「寅待」が、それです。

       その説明部分を引用させていただきます。

      「寅待は、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻におこなうことになる。
       だが、これでは十二年に一回ということになるので、寅の月なら一年に一
       回だ。
       さて、その寅の月の寅の日がきた。
       女の人は、そのまえの夜−丑の日の亥の刻(午後十時ごろ)に、からだを
       きよめ、あたまの髪の毛をあらう。あらった髪の毛をむすばないで、うし
       ろのほうに下げるのだ。そして、白い着物を着る。
       それから、アパート、団地ずまいの人にはむりなことだが、八畳の座敷が
       必要である。八畳といっても、東・西・南・北とどこからでもはいれ、ど
       こからでもでていけるへやなのだ。四方入りといわれるものだ。
       旧家なら、よくみかける座敷だ。
       さて、白い着物を着おわったなら、その八畳の座敷にはいる。そこで四方
       のふすまなりしょうじなりをしめきる。いまおこなおうとしている寅待が
       すむまでは、だれひとり座敷にはいれない。
      『もしはいってきたり、またなかばででていったりしたら、この寅待の行事
       はやぶれますよ。』
       と、寅待にくわしい磯清さんはいう。
       ともかく、他人とかかわりあってはならない。
       この座敷の寅の方角に鏡をおく。むかしは銅づくりのものをもちいたそう
       だ。まえもって鏡の面からくもりをぬぐいとっておくことだ。
       その前に、一本のロウソクをたてておく。道具はこれだけだ。
       ロウソクに火をともしてから、女はその火の光にねがうのだ。
      『わたしの一生のすがたを、おうつしください。』
       神とか仏とかではなく、火の光にねがいつづけるのだ。
       女は念じ終わる。それからロウソクの火を右の方にうつし、女は鏡の面を
       じっとみつめる。
       もう時刻は丑の刻(午前一時)をすぎている。
       女のねがいがつうじ、この女の一生が鏡にうつしだされてくる。
       磯さんは、女の一生の運、ともいっているが。」

       この中には、何度「寅待」を行っても、その度に炎が消えたり、鏡が割れ
       たりした女性の話もでてきます。

       どこの地方の風習か、ははっきりと書かれていませんが、溺れている姿が
       映ったという話は、著者が広島地方で採取した話だと書かれています。
       中国地方の風習かもしれません。      

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