祭 神:少彦名命 大己貴命 説 明:ご由緒を引用します。 「当神社の創建年代は不明だが、古代より神の宿る山(神奈備山)としての信仰が あり、神功皇后・後醍醐天皇御祈願の伝承、尼子氏の寄進、米子城主代々の崇敬 等記録に残る、長い伝承と歴史をもった社である。山頂の御社殿は、昭和十一年 十二月再建のものであり、総台湾桧造りで屋根は銅板葺き、弓浜半島随一を誇る。 御祭神の少彦名命は、神代の昔、大己貴命(大国主命)と共にこの国をひらき、 人々に医療の法を教え、禁厭の術を授け、万病よりお救いになった神であり、そ の尊い御神徳は古事記・日本書紀に記されている通りである。 のちに常世に御渡になったその最後の地がこの粟嶋である。 御神徳 少彦名は、難病苦難をお救いになる祖神様であり、殊に婦人の病気平癒 延命長寿、安産、子授け、交通安全等の祈願多く、氏子はもとより古来広範囲に わたる庶民の篤き崇敬をあつめている。 風土記の里 粟嶋 沿革:粟嶋は、伯耆風土記逸文によると、少彦名が粟の穂にはじかれて常世国に 渡られたので粟嶋と名付けたとある。 江戸時代中頃までは中海に浮かぶ小島であったが、江戸時代末期に埋め立てられ て陸続きとなった。一の鳥居のあるあたりが、昔の海岸線であり、『三文渡し』 の船着き場があった。 海抜三十八米、百八十七段の石段を登れば四方の眺望はまさに絶景、特に南側、 本殿裏の小路を下って展望台に立てば、東の伯耆富士・大山、米子平野から西の 安来十神山に至るなだらかな稜線に囲まれた水路はまるで瀬戸うちの景観を思わ せ、錦海八景の内、『粟嶋の秋月』として知られている。シイやコガの古木がう っそうと茂るこの社叢の植物分布は、この地方でも珍しく多種にわたっており、 昭和五十三年米子市の名勝に、又昭和五十六年、県の天然記念物にそれぞれ指定 されている。 境内を右へ廻った所に、『お岩さん』とよばれる古代神まつりの場があり、西側 の山麓には、その昔、人魚の肉を食べて八百歳まで長生きをしたという『八百比 丘尼』の伝説の洞窟『静の岩屋』がある。 伯耆国風土記逸文 粟嶋 伯耆国の風土記に曰はく、相見の郡、郡家の西北に餘戸の里あり、粟嶋有り、少 日子命、粟を蒔きたまひしに、莠實りて離々りき、即ち粟に載りて常世の国に弾 かれ渡りましき、故、粟嶋と云ふ。(釈日本紀 巻七) 」 住 所:鳥取県米子市彦名町1405 電話番号: ひとこと:少彦名命は、悲しい運命を背負い、各地を巡歴した女性と非常にご縁の深い神様 ではないでしょうか。 淡島様、中将姫、神功皇后。 淡島神社のご祭神は、神功皇后と少彦名命。 そしてこの神社には、淡島願人の伝えた淡島様の物語が残ります。 中将姫と少彦名は共に薬の神様。 そしてここ、粟嶋神社には、八百比丘尼の住まいと伝わる岩屋があるというわけ です。 現在「女性の守り神」として有名になっている神社をよく調べてみると、遊女の 信仰した神社らしいことが多いような気がします。 女性の中でも、もっとも悲しく切なく、そして切羽詰まった祈りを持つのは、こ うした職業の女性たちなのかもしれませんね。 思う人と添い遂げられない悲しみ。 思わない人に嫁がされる絶望感。 そして何より、病への恐怖。 「女性の守り神」の多くは、「婦人病鎮め」の霊験があらたかだとされます。 婦人病……つまりは花柳病でしょうね。 梅瘡と呼ばれた梅毒もその一つ。 「瘡」という言葉があるように、疱瘡やハンセン病などの病とも混同されていたかも しれません。 それらは伝染する病の上に、見た目を変えてしまうものですから。 彼女たちにとって、この病を封じることは切なる願いだったに違いありません。 そんな女性たちが頼みにする神として、永遠の若さと美しさを保つ八百比丘尼の姿 があってもおかしくないですよね……。 とはいえ、この神社に参拝したのは早朝だったせいもあり、そうした女性たちの信 仰が根付いていたかどうかはわかりません。 ただ、非常に印象に残る神社では、あったのです。