祭 神:天甕津媛命 説 明:境内看板を転載します。 「吾妻に鎮座まします神で、郷社(式内)阿豆良神社と申すが本名であります。 祭神は天みか津媛で垂仁朝五十七年(紀元六八八)の創建で、今年から一千九百四 従二年前に当たる古社であります。熱田神宮、津島神社、内津神社よりも古く大県 神社、国府宮尾張大国霊神社と殆ど同時代で一宮真清田神社だけが神武朝三十三年 であるから古いのであります。尾張本国神名帳集説に『従一位阿豆良神在稲置荘吾 鬘村、釈日本紀尾張風土記中巻曰、丹羽郡吾鬘郷巻向珠城宮御宇天皇(垂仁)品津 別皇子、生七歳而不語、傍問郡下無能言之。乃後皇后夢有神告曰、吾多具国之神名 曰、阿麻彌加都比女。吾未得祝、吾為吾充祝人皇子能言、亦寿考。帝卜人覓神者、 日置部等祖建岡君卜食即遣覓神。時建岡君到美濃國花鹿山、擧賢木枝造縵、誓曰吾 縵落処必有此神。去落縵於此間、乃識有神。因竪社由社名里、後人訛言阿豆良里』 右の由緒は諸書にありますが其の中最も完結なものです。 これを意訳しますと、『垂仁天皇に品津別皇子と云ふ皇子がありました。生まれを ち啞で七歳になられても言葉が出ません。天皇は御心配の余り群臣に治療の方法を 御尋ねになりましたが、誰も明答を致しません。一夜皇后様の夢に『私は出雲の阿 麻彌加都比女(天みか津媛)と申す神であるが、今迄誰も祀ってくれないが祠を建 て、神に祭るなら、皇子の啞は立ち所に治り、天寿を全うして長生が出来やう』と 申して枕神は消えました。天皇は臣下に卜占はせて建岡君に祭神のことを御委にな りました。建岡の君は美濃国花鹿山(揖斐郡花長神社、現存)に登って山中の榊の 枝で縵(みずら・古代頭髪に挿すもので『カンザシ』に当たる)を作って、天神に 祈って『此の縵の落ちた所が神を祭る所である』と申されて、縵を遠く投げられま した。縵は遠く南方に飛んで此の地に落ちました。そこで直ちに寝殿の造営にかゝ って天みか津媛命をお祀りになりました。『みづら』によって地名となり後世言葉 がなまって『あづら』となりました。』 古来此の神社に祈願すると聾啞が治ると申すのも由緒から来たものであります。境 内神社中に神宮司社とありますが、前に述べた建岡の君が祀ってあります」 住 所:愛知県一宮市あずら1-7-19 電話番号: ひとこと:花長上神社、花長下神社ともに由緒のわかるものがなかったので、現在は阿豆良神 社とどういった関係があるのかわかりませんが、WIKIには、毎年9月7日、二社が交 互に祭礼を行っていることや、二社の神が夫婦だとの説も書かれてありますね。 しかし、大和の王の皇子の病を、出雲の神が治すっていうのに、なぜ美濃の山から 神の鎮座地を占い、尾張に祭ったんでしょう?? ごく素直に考えれば、この品津別命のモデルとなった人物は、尾張の王子だったっ てことじゃないかと思うんですけど。 天甕津媛は出雲の多久神社にも祀られており、関係が気になったので、早速参拝す ることにしたんです。 尾張の神社は、拝殿の正面に楯のようなものが作られ、鳥居から拝殿が見えないよ うになっているものが多かったです。 なんの意味があるんでしょうね?