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藤切神社

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  祭  神:田心姫命 市寸嶋比賣命 奥津比賣命 
  説  明:滋賀県神社庁のサイトから転載します。
      「49代光仁天皇天応元年、右大臣中臣清麻呂が勧請した、大同3年殿宇創立、鳥羽帝の天永3年舎人物部友主が社
       殿を再建、小松院慶永元年再築の事が棟札に記されている。此地は伊勢越え千種峠の要津にて古は交通頻繁の
       要衝であった。当社は其の麓に鎮座し境内広闊の山社である。延喜式近江の調に黒藤30斤あり、其の藤は此の
       山より貢進された。藤切谷は其処なりと伝え藤切の社名よりこれより来る。応永28年社殿造営には近郷十数ヶ
       村の広区域より奉加したと記される。爾後宝徳3年、天文元年改建せる事棟札にあり、現社殿は享和2年造営の
       ものである当社は古来的の神事あり、佐々木氏の寄進による大幕を現存する。寛正6年及び延宝7年の金口を蔵
       す、宝徳の棟札銘と共に次の記あり「元慶元年宝徳3年マデ570余、其後社檀応永28年辛巳10月10日柱立云々」
       明治9年村社に列せらる。」
  住  所:滋賀県東近江市甲津畑町214
  電話番号:
  ひとこと:このあたりの神社は、中臣清麻呂により勧請されたものが多いようです。
       
       中臣氏は、藤原氏と同系列ですが、特に神祇官的な役割を果たした人たちが、中臣を名乗ったというような話
       もありますし、東近江とこの中臣清麻呂にはなんらかの強い関係があったのでしょうね。
       
       黒藤30斤を朝廷に献上していたから、「藤切」らしいですが、藤の何を献上していたのでしょうね?
       藤の花は、とにかく水上げが悪く、切るとすぐに枯れてしまいます。かといって、蔦を何かに使ったというの
       もピンとこないし……。
       
       中臣氏の勘定なのに、なぜ延喜式内社じゃないのかも、不思議。
       つまり、朝廷は、この神社の祈年祭に何も贈らなかったということで、藤を献上されているのにお返しなし?
       
       いろいろ気になりますが、とにかく景色が素晴らしい神社でした。

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