祭 神:大己貴命 少彦名命 天照大神 説 明:境内にある京都市の看板を転載します。 「祭神として、大己貴命・少彦名命・天照大神を祀る。 社伝によれば、延暦十三年(794年)、桓武天皇の平安遷都にあたり、大和 国宇陀郡から、天神を勧請したのが、当社の始まりという。 当初は、『天使の宮』(天使社)と称したが、後鳥羽天皇の時代に、『五條天 神宮』と改めた。 創社の頃は社域も広く、社殿も広壮であったが、中世以来、度々火災にあい、 元治元年(1864)の蛤御門の変で、社殿は焼失した。現在の社殿は近時の 再建である。 当社は古来、医薬・禁厭(まじない)の神として広く崇敬され、今なお節分に は、厄除け祈願のために参詣する人が多い。」 住 所:京都府京都市下京区松原通西洞院西入天神前町351−2 電話番号:075−351−7021 ひとこと:光分社刊 小松和彦著「京都魔界案内」109頁には、この神社が紹介されて ます。 「五条天神社はかつては祇園社(現八坂神社)の末社であった。天皇が重病にな ったり、戦乱や天変地異のために世の中が騒がしくなったりしたとき、この五 条天神が流罪にされた。『看聞日記』や『徒然草』などによると、そのような 事態が生じると、勅使が祇園社に赴いて、五条天神を流罪に処すと告げる。こ れを受けて、今でいえば警視庁にあたる検非違使庁の役人が五条天神社に派遣 され、閉門・流罪のしるしである『靫』を架けた」 私はこの一文に興味を惹かれて、ずっとこの神社に参拝したいと思っていまし た。 そして、今回やっと、五條天神社に参拝したのですが・・・。 参拝し、神社の案内を見てみると、この御祭神は宇陀からの勧請というではあ りませんか。 宇陀郡のどの神社からの勧請かは具体的に書かれていないのでわかりません。 でも、宇陀(というか宇陀から吉野にかけて)という地は不思議な場所です。 天智天皇に目をつけられた大海人皇子は、吉野に逃れた後、最初に宇陀の人々 に助力を求めました。 継母に捨てられた中将姫は、宇陀の地に匿われました。 後醍醐天皇は吉野に逃れ、吉野あたりを本拠地とする楠正成公の力を借りまし た。 源義経公は吉野へ逃れました。 つまり、いつも、弱者側の逃れる先に、吉野・宇陀がある、という印象が強い のです。 なぜ?? そう思っていた時に、「平安のスケープゴート」五條天神が宇陀出身だと聞け ば、想像をたくましくしないわけには行きません。 なにしろ、「弱者の味方」ということは、強者側、つまり、時の為政者側にと って見れば、(単純に考えれば)「敵」ということになるのです。 桓武天皇の時代、宇陀の人々が、朝廷から見て敵対者だったかどうかは、もち ろんわかりませんが、もし、「敵」であったとしたならば。 敵の神を、わざわざ招待した上に、 疫病が流行ったり、天皇が病気になったりしたら、罪を全部なすりつける・・・。 ・・・い・・・陰険だ・・・。 ところで、このご祭神は、「大己貴命」「少彦名命」となっていますね。 この二柱の神は風土記などでは、とても仲の良い神として描かれます。 もちろん、記紀においても、一緒に国土を造った盟友なのですが、風土記での 描かれ方は、もっと個人的なお付き合いについてまで言及されています。 例えば、播磨国風土記では、 「重い荷物(粘土)を運ぶのと、うんこを我慢して行くのでは、どっちが大変?」 などと、実験(?)してみたり。 伊予国風土記では、大己貴命が、絶命した少彦名命を生き返らせたりしている のです。 そう思って見ると、大己貴命は「蘇生の神」という印象があるかもしれません。 少彦名命は、医薬の祖神ですよね。 「蘇生の神」と「医薬の神」。 厄病が流行った時に、この大事な神々を島流しにしてどうするのでしょう? 丁寧に奉って、 「病気を治してください。死んだあの人を生き返らせてください。」 とお祈りするならわかるのですが、流罪にするというのは納得がいきません。 だって、流罪って、結局は、 「おまえなんか、都から出て行け!」 ということでは? 蘇生の神と医薬の神に、厄病が蔓延する都から出て行かれては困るではないで すか??? まぁ、 「蘇生の神と医薬の神がついていながら、厄病を流行らせるとは何事だ!!」 ・・・と、ヤツアタリ気味に理不尽なことを言いたくなる気持ちはわからない でもないのですが・・・。 やっぱり、大人のするこっちゃないような気もします。 敵の「病を癒す神」をわざわざ呼んできて、殊更に罪を被せて島流し。 やっぱ、大人げないですよね? ただ、ひとつだけ、「これかな?」と思えるのは・・・。 日本書紀に描かれている、少彦名命退場の場面です。 少彦名命が粟の穂にはじかれて、常世の国に去った後、大己貴命は、 「一人取り残された」 と嘆くのですね。 すると海の向こうから、大物主命が光り輝きながらやってきて、 「私はあなたの幸魂・奇魂だ」 と、宣言する、わけです。 つまり、「少彦名命」は、どこかへ去った後、光り輝くものとして再生するわ けですね。 少彦名命の流罪は、これを狙ったものかも?? とも。 つまり、少彦名命の島流しは、次にやってくる、光り輝く再生のための布石に すぎない・・・。 穿ちすぎかなぁ? また、もう一つ違う考え方があります。 それは、 「宇陀の人々の間では、願いを叶えてくれない神に罪を着せるというしきたりが あった」 という考えです。 雄山閣出版 山上伊豆母著「巫女の歴史 日本宗教の母体」 には、「巫女」と「土偶」について言及がありました。 土偶は、しばしば意図的に壊された形で出土するのだそうです。 つまり、土偶に願を懸け、叶わなければ、それを壊す・・・という風習があっ たのではないか、と。 山上氏は、それが土偶に取って代わったのは、ある程度時代が下ってからで、 当初は、土偶ではなく、巫女やシャーマンが犠牲になっていたのではないか、 と推察されています。 願いを叶えない神を処刑にする・・・この発想は、この五條天神社の御祭神に かかる風習と、根底で繋がってはいないでしょうか? つまり、宇陀の神々・宇陀の人々は、縄文から繋がる文化を、この時代まで有 していたのではないか・・・と。 そういう考えは、非常に魅力的ではあるのですが、どうでしょうか?