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祝園神社

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  祭  神:天児屋根命 健御雷命 経津主命
  説  明:境内看板を転載します。
      「当神社は、延喜式内社で、第四十八代称徳天皇の勅命により、悪病平癒・家内
       安全・農商工業の発展を祈願するため、神護景雲四年一月ニ十一日に創祠され
       たお宮である。」
      「人皇第十代崇神天皇の御代、第八代孝元天皇の皇武埴安彦が朝廷に反逆を企て
       遂に此の地に於いて討伐されたが(記紀参照)亡魂、柞ノ森に止まり人民を悩
       ませしを第四十五代聖武天皇神亀年中これを撲滅せんとするも鬼神の所業なれ
       ば、人力にては如何ともなり難く、後年第四十八代称徳天皇の御代、神力を以
       てこれを撲滅せよとの勅命により、直臣池田六良廣綱、宮城七良朝藤が、祝部
       となり、神護景雲四年一月二十一日春日の大神を御勧請し創祠された。
       而して斎戒沐浴精進祈願に依り(これが今に伝わるいごもり祭の始まり)神力
       の加護の基に遂に悪霊撲滅の難業成り、廣綱、朝藤の功と相俟って漸く悪病平
       癒、人民安堵、農家の繁栄、商工業の隆盛を見るに至った。かかる霊験灼かな
       る神なれば、貞観元年正月二十七日に神階位従五位下を授けられ後年延喜式内
       大社に列せられる。天正四年七月二十四日には天下泰平の国宜あり院参の官人
       及び武門武将の尊崇深く、社殿の修造に寄進の事がしばしば見受けられ慶応三
       年八月には有栖川官家より御寄進を賜り、同宮家の御祈願所となる。明治六年
       郷社と定められ祝園村の産土神と決定した旨達せられる。
       昭和三十八年高松宮殿下より、有栖川宮威仁親皇殿下五十年祭に当たり、同殿
       下の筆録を御寄進有り。」
  住  所:京都府相楽郡精華町祝園柞の森1
  電話番号:
  ひとこと:この神社も、拝殿から参道への道を邪魔するように灯篭が建てられています。
       亡霊撲滅に係る神社でこの形・・・。
      「本殿」には悪霊が封じ込めてあって、出てこないようにと灯篭が邪魔してる、
       と怪しいことを考えたくなりますね(笑)

       この「祝園」という名前について、日本書紀にはこう記されています。

      「ついで彦国葺が埴安彦を射た。胸に当って殺された。その部下たちはおびえて
       逃げた。それを河の北に追って破り、半分以上首を斬った。屍が溢れた。そこ
       を名付けて羽振苑(はふりぞの)という。」

       つまり、「屠(ほふ)る」「園」から来ているというわけです。

       武埴安彦は、孝元天皇の皇子とされる人物で、崇神天皇に謀反を企てた疑いで
       倒されるわけですよね。

       埴安彦とは「はにやすひこ」。
       伊邪那岐神が産褥の中で生んだ、埴土の女神である「埴山姫(はにやまひめ)」
       の名と似た響きであることがとても気になっています。

       しかも、埴安彦は、謀反を起こすにあたって、あるまじないをしています。
       妻の吾田姫に命じて香具山の土を取ってこさせるのです。
       そしてその際、「これは倭の国の代りの土」と呪言をさせています。

       やっぱり「土」。

       ・・・「○○の申し子」という表現がありますよね?
       武埴安彦は、「土の申し子」だったのでしょうか。

       土というと、五行では、「中央」に位置して描かれています。

       木は「小陽」「春」「青」「東」。
       火は「大陽」「夏」「赤」「南」。
       金は「小陰」「秋」「白」「西」。
       水は「大陰」「冬」「黒」「北」。

       をそれぞれ象徴しますが、「土」は、「陰陽混合」であり中央。

       陰陽五行についての知識はまったくないので、ここでは深くは語ることができ
       ませんが、なにしろ、土については、「強力そう」なのです。

       その「土の申し子」である埴安彦は、もしかしたらものすごい力を持っていた
       んじゃないか、と思うのです。

       天児屋根命・健御雷命・経津主命という神々は、実は、「埴安彦の怨霊撲滅」
       という使命もさることながら、「怨霊封じ」のために祀られている・・・とか。

       健御雷命と経津主命は、武力でもって国譲りの交渉を成し遂げた神々です。
       葦原中国(出雲の国)を天照大神に譲った後、大己貴命は幽界へと隠れてしま
       った、とされています。

       ただし、一書(第ニ)では、大己貴命が隠れるについて、条件を受けています。
       ・大己貴命は幽界を、皇孫が現世を治めること
       ・大己貴命が住むために豪勢な宮殿(出雲大社のことと言われてます)を造る
        こと
       ・天穂日命が大己貴命の祭祀を司る

       つまり、早いこと言えば、
      「あんたには死んでもろて、うちらがここ乗っ取るけど、豪勢な墓たてて、ちゃ
       んと祀ったるがな」
       ということになるんでしょうが・・・。

       苦労して造った出雲の国を奪った上、国主の命まで奪うわけですから、その祟
       りは強大になるだろう、と、考えられたと思います。
       それをなだめ、祀る役目を天穂日命が司ったということになるのでしょうね。

       大己貴命を倒すために派遣されたのは、健御雷命と経津主命という「武神」で
       した。
       そして、大己貴命を倒した後活躍したのは、天穂日命という「祭り主」でした。

       今、祝園神社のご祭神の面々を見てみると・・・。
       健御雷命と経津主命という武神と、そして、天児屋根命という祝詞の神です。
       これは・・・。

       それにですね。
       そもそも、香取神宮によれば、経津主命の別名は、「イワヒヌシ」。
       素直に読めば、「祝い主」。
       つまり、祭り主なんじゃないでしょうか?
       出雲国譲りの交渉に出向いたのは、もともと、「武神」と「祭り主」だったと
       は考えられませんか??

       そう考えると、この神社のご祭神は、「祭り主」2柱と、「武神」1柱という
       考え方にもなるではないですか。
       なんというか・・・。
       武埴安彦を討伐したいのなら、武神に力点を置くべきですよね?
       なんで、「死後」の祭祀に関わると思われる、「祭り主」に重点を置くの??

       う〜〜〜む(-"-)
       武埴安彦は本当に謀反を企てたのでしょうか?
       もしかすると、そうではなく・・・。
       崇神天皇が、反対に埴安彦の所持する国を、土地を奪おうとしたってのが真相
       でぃは・・・?!

       そして、この神社だけではなく、有力な武神と有名な祝神という組み合わせは、
       よくみかけませんか?
       そして、「祟り」が原因していることも・・・。

       その「事情」「理由」というものを、今、もう一度見直してみたいものです。
       結構ディープかも・・・。

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