祭 神:誉田別命 気長足姫命 足仲津彦命 菅原道真 説 明:ご由緒書を転載します。 「広八幡神社は、もと八幡宮と称し、広荘の産土神社として有名である。 本殿には、誉田別命・気長足姫命・足仲津彦を祀り、若宮社には大鷦鶺命を、 高良社には武内宿弥、天神社には菅原道真公を祀っている。 紀伊続風土記には欽明天皇の頃の創建にかかるとい伝えられ、天正十三年 (1585)豊臣氏の兵火にかかり、神庫や防舎などが焼失し、一時衰退したが、 慶長五年(1600)浅野幸長が藩主になると神領十意志を寄附され、元和五 年(1619)には紀州徳川家が入封してより歴代藩主もこれを襲用するとと もに篤い保護を加え、次第に興隆した。 明治の神仏分離までは両部の神で現在の社殿の外に末社・多宝塔(現在広島市 三滝寺にあって県の文化財指定)・鐘楼(同町上中野にある法蔵寺にあり国の 重要文化財)・西門(同町広 安楽寺にあり)・神楽所・観音堂などが建ち並 んでいたが、漸次取り払われてしまった。」 住 所:和歌山県有田郡広川町上中野206 電話番号:0737−62−2371 ひとこと:和歌山は八幡神社が多い・・・というのは、同じ日に参拝した「野上八幡宮」 の宮司さんもおっしゃってましたが、この廣八幡神社の宮司さんも同じことを おっしゃいました。 それで、「あ、今朝野上八幡宮に参拝したのですが、その宮司さんもそう、お っしゃてましたね」と言いますと、 「野上八幡の宮司さんとは、今電話でしゃべってたとこ!」 とのことでした。 なんでも「八幡連合」だったか、「八幡寄り合い」とか・・・すいません、ち ょっと記憶が怪しいのですが、全国の八幡宮の繋がりがあるんだそうです。 すごいですよね〜〜・・・。 さて、宮司さんはすごく親切な方で、神社の境内をぐるりと案内してくださっ たのですが、最後まで触れられなかった石碑がありました。 そうなると、却って気になるじゃないですか(笑) 「あの石碑はなんですか?」 と伺いますと、 「若い方はご存知ないでしょう・・・。はまぐちぎへいという人物、ご存知ない でしょう?」 「・・・えぇ〜〜っと(^^ゞ」 聞いてすぐには思い出せなかったんですよ、本当に。 が、続いて宮司さんがこうおっしゃると、すぐ閃きました。 「昔、和歌山に大洪水が来たんですよ」 「あ!刈り取ったばかりの稲に火をつけて、村人を安全な高地に誘導した村長さ んですか!?」 この話しは、小泉八雲が、「living god」という作品にしています。 濱口五兵衛は人望の篤い村長でした。 その年の稲の収穫が終わり、収穫のお祭が海岸あたりで行われていました。 村長である五兵衛翁は、高地にある自宅の縁側で、その祭りを打ち眺めており ました。 その時、家が揺れたのです。 しかし、その揺れ自体は、何度も大きな地震を経験している五兵衛には、驚く ほどのものではありませんでした。 驚くことは、その後に起こりました。 海の水が、沖へ沖へ・・・吸い込まれるように干いていくのです。 五兵衛翁は、このような現象を親から聞いて知っていました。 ・・・津波が来る!! すぐに村人を非難させねば!! 一刻の猶予もありません。 五兵衛翁は、積み上げた稲の山に向かって走りました。 「松明を持っておいで!」 孫の忠に半ば怒鳴りつけるように命じました。 忠が火を持ってくると・・・。 五兵衛翁は自らの全財産に火を投じました。 祭りに興じていた村人は、最初、海で起きた異変に引き付けられるように集ま りました。 しかし次に、もっと大きな異変・・・。 村長宅の田で起きた火事に気づくと、慌てて山を上り始めたのです。 「大変だ。村長が一文無しになってしまわれる!」 誰一人、祭りに残ろうとした人間はおりませんでした。 そして、村人がすべて五兵衛翁のところに集まった時。 ざぱ〜〜〜っ!! 沖に堪っていた水が、はじけるように、海岸に押し寄せたのでした。 村長の手元には屋敷だけが残りました。 頭を地面にこすりつけて感謝する村人に、五兵衛翁は言いました。 「まだ屋敷が残っている。皆が雨を凌げる場所を提供することが、私には、まだ できる。」 村の再興はなかなか成りませんでしたが、数年後なんとか村が立ち直った時、 人々がまず作ったのは、 「濱口大明神」の祠でした。 五兵衛は生きながら「神」となったのです。 ・・・とまぁ、そんな話しです。 戦前は教科書にも載っていた話だそうですから、そちらで読まれた方もおられ るでしょう。 宮司さん曰く、 「物語りでは、五兵衛となっていますが、本当は義兵衛です。 また、物語りでは、人々は祠を建てたとなっていますが、実際は、義兵衛が、 大げさなことを嫌ったため、祠は建てられませんでした。 しかし、後世、義兵衛を慕う人々により石碑が建てられました。 石碑の文字は、勝海舟の筆によるものです。」 とのことでした。 義兵衛翁は、人々に慕われていたからこそ、村人を全員助けることができまし た。 だって、考えてみてください。 もし、義兵衛翁が村人に嫌われていたら・・・。 たとえ稲に火をかけようが、 何人かは、祭りに残ったかもしれません。 「皆が行っても、仕方ないから、わしはここで、祭りの後始末でもするわ」 「海の方が気になるから、見張っておくわ」 などと言って。 が、村人はそんなことを考える猶予もなく、火を見るとすぐに駆けつけました。 もちろん、「火事」は村人総出で消し止めるものだった・・・というのもある のでしょうし、 単に「延焼により自分ちに被害が来るのを怖れただけ」という意地の悪い見方 もできるとは思うのですけれど(^^ゞ 「海水が沖へ引き寄せられてから押し返すまで」 の、ごく短い間に、村人全員が安全な場所まで避難できた、ということに深い 意味を感じるのです。 理屈じゃなく、義兵衛への「心配」が、彼らを突き動かしたのではないか、と。 濱口義兵衛は、「津波から村人を救ったから」というよりも、 人々が彼のために、理屈もなく行動してしまうほど愛されている人だからこそ、 「生神様」になった、といえるかもしれません。